「匠の記憶」第5回 BOØWY 3rdアルバム『BOØWY』ディレクター・子安次郎さん

 氷室京介、布袋寅泰、松井常松、高橋まことによる伝説のロックバンド、BOØWY。大躍進のきっかけとなり、後の日本のロックシーンを変えたといわれる3rdアルバム『BOØWY』が、オリジナル・アナログ・マスターからテッド・ジェンセン(NY Sterling Sound)による最新リマスタリングによって24bit/192kHz ハイレゾ化リリースされた。30年前の1985年2月26日〜 3月15日、当時まだ東西が“ベルリンの壁”で分断されていたベルリンのハンザ・トンスタジオにて、佐久間正英によるプロデュースのもと、デヴィッド・ボウイの名作アルバム『ヒーローズ』のレコーディングにも参加したエンジニア、マイケル・ツィマリングとともに作り上げた日本のロックシーンにイノベーションを起こした鉄壁のサウンド。その後、ロックシーンはBOØWY前、BOØWY後と分けて語られるようになった。伝説となったベルリン・レコーディングの真相について、BOØWY3rdアルバム『BOØWY』からラスト・アルバムとなった6thアルバム『PSYCHOPATH』までディレクターを担当したユニバーサル ミュージック(※当時、東芝EMI)の子安次郎さんに迫ります。

 

インタビュー&テキスト:ふくりゅう(音楽コンシェルジュ)

 


 

インタビューの様子。(イラスト:牧野良幸)

 

――今回、24bit/192kHzにてリリースされたBOØWY の3rdアルバム『BOØWY』は、1985年の6月22日にリリースされたので、ちょうど30年の節目となりました。このあと8月には、Blu-rayオーディオ盤や高音質CD、重量盤アナログのリリースも控えているそうですが、伝説となったベルリン・レコーディングについてお話を聞かせてください。

子安 ものすごく思い入れの強い作品ですよね。BOØWYに出会わなかったら、とっくの昔に会社をクビになっていたと思いますから(笑)。それに、ベルリンへレコーディングに行く2日前に長男が産まれたんですよ。長男もちょうど今年30歳なので、覚えやすいという(笑)。

――それはすごいタイミングでしたね。子安さんのBOØWYとの出会いを教えてください。

子安 私は当時、どちらかというと歌謡曲・ポップスの制作部にいました。当時、東芝EMIは、BOØWYの事務所であるユイ音楽工房さんに所属していた長渕剛さんや、中原めいこさんをリリースしていました。そんな流れでユイさんのほうから、「(東芝EMIで)バンドをやりませんか?」というお話をいただきました。ディレクターは?となったところで、私が隣の制作部から異動になって、担当することになりました。

――そのころの東芝EMIは、どんなアーティストが活躍していた時代ですか?

子安 やっぱり一番大きいのはユーミン(松任谷由実)、長渕剛さん、甲斐バンドですね。

――その中で、新人バンドで移籍組として迎えられたBOØWYはどういうポジションだったんですか?

子安 実は最初は社内でまったく相手にされてませんでした(苦笑)。当時、ちょうどM-BANDが同じタイミングで移籍してきたんですよ。2つロックバンドが移籍してきて、でも会社的にはM-BANDがイチオシだったんですよね。それは担当として悔しいじゃないですか? だったら逆手にとって「会社の目の届かないところで好きにできるな!」と奮起しました。

――なるほど。それにしてもベルリンでレコーディングって、なかなかない発想ですよね?

子安 なかなかどころか、普通じゃないですよね(苦笑)。BOØWYが移籍してきたときに、進むべき方向性などいろいろ考えたんですよ。とにかくもの凄い才能があるなと。でも才能を全部あらわしきれてない状況が、それまでの彼らにはあったんですね。特にレコーディングに関して。これは誰か兄貴分的に、彼らの才能を引っ張り出してくれるプロデューサーが必要だなと。さて、誰がいいだろうということで候補が3人いて。佐久間正英さん、土屋昌巳さん、伊藤銀次さん。じゃあメンバーに会ってもらおうと。それで最初に会っていただいたのが、布袋さんも会いたがっていた佐久間さんだったんです。でも、佐久間さんは、半分断るつもりだったみたいで(苦笑)。それで「ベルリンでレコーディングするんだったら、やってもいいんだけど……」みたいなムチャ振りをされて。まぁ、そういうことを言えばレコード会社も断るだろうと思ったそうなんですよ。そこで思わず膝を叩いて「それは最高だ!」と答えてしまって(笑)。

――すごい話ですよね。海外レコーディングって滞在費含め、予算的に大変だったんじゃないですか?

子安 これが、意外にも当時のベルリン・レコーディングというのは安かったんですよ。スタジオ代にエンジニア代も含まれていて、なおかつ1週間、2週間とやるとさらに値段が下がって。実際にスタジオを使ったのはレコーディングとミックスで、ちょうど2週間ぐらいでした。そして、結果的にハンザ・トンスタジオでレコーディングしたという経験が、後のBOØWYの成功に凄くプラスになったんです。

――それこそ、ビクターでリリースした1枚目の『MORAL』は一発録りに近かったそうですね。そして、2枚目の『INSTANT LOVE』はメンバーだけの自主制作に近いレコーディングで。実は、BOØWYというバンドは3枚目の『BOØWY』まで、ちゃんとしたレコーディングを経験していなかったということですね。

子安 そうなんですよね。

――そこでいきなり、デヴィッド・ボウイ、ブライアン・イーノ、イギー・ポップ、デペッシュ・モード、ニック・ケイヴ・アンド・ザ・バッド・シーズの名盤が誕生したベルリンの伝説的なハンザ・トンスタジオで海外レコーディングって、ほんと驚きですよね。

子安 プロデューサーの佐久間さんが、環境が大事ということで提案されていたんですね。海外の閉ざされた空間で、音楽だけに集中できる場所の大切さというか。BOØWYのメンバーは佐久間さんにロックな音作りを望んでいたんです。そこで、本物の欧米のロックを生み出している環境を与えるということが、重要だと考えていらっしゃったようですね。

――実際、日本のレコーディングと比べて、現地でのレコーディングはどのような感じでしたか?

子安 エンジニアは、マイケル・ツィマリングというスタジオを支えていたエンジニアが参加してくれました。彼は叩き上げなんですけどすごく優秀で。レコーディングする時ってヘッドフォンをするじゃないですか? 自分たちの出している音をヘッドフォンで聴きながらレコーディングするんですね。その聴こえてくる音が全然違ったんです。メンバー自身がまず驚いたんですよ。最初に自分たちが「ジャーン!」と音を出したときに、それまで彼ら自身が聴いていた音とまるで違ったそうなんです。みんなが驚きの声を出したのをすごく覚えてますね。やっぱり素晴らしい音を聴きながらプレイをすることによって、プレイもどんどん良くなっていきました。スタジオ自体も、ヨーロッパらしい大きな古いビルで。

――もともとナチスの娯楽施設を改良したスタジオだったらしいですね。

子安 壁がとにかく厚くて。普通はスタジオの扉って、ぎゅっと閉め切ったりするじゃないですか? でも、ちゃんと閉まってなくてもいい音なんですよ。石造りの文化ですよね。建物自体の鳴りがものすごく良かったんです。響いてる音がまるで違う。開放的な環境でした。

――初の海外レコーディングで、エンジニアも海外の方というと、メンタル的に大変だったりということはなかったんですか?

子安 メンタル面で大変だったという記憶はないですね。もちろん身振り手振りのカタコト英語でコミュニケーションだったんですけど「音を出せばわかる」みたいな交流が生まれました。そういえば、スタジオの1階のレストランが美味しかったんですよ。そこのメニューでヴィーナー・シュニッツェルっていう、日本のトンカツのような料理があって、非常にホッとする味でした(笑)。毎日それを食べてましたね。2年目からはトンカツソースを持参して、ボトルキープしてもらってました(笑)。

――ハハハ、それはいい話ですよね(笑)。でも当時は、いわゆるドイツを東西に分けた“ベルリンの壁”があった特殊な時代ですよね?

子安 そうなんですよ。ハーヴィス・インターナショナルというホテルから壁ぞいを歩いて3分、スタジオまで毎日通ってました。石炭の匂いがする真冬のベルリンという生活でした。ホテルのドアマンの方が優しい笑顔で迎えてくれたことを今でも覚えています。

――ロンドンで活動されていたフォトグラファーのハービー山口さんも同行されていたんですよね?

子安 そうですね。アーティスト・ヴィジュアルとなる写真を撮っていただきました。

――プロデュースが佐久間さんで、写真がハービー山口さんというのも素敵な巡り合わせですよね。しかもベルリンでという。

子安 その後いろんな面でお世話になる人たちが、このプロジェクトに集まってきてくれていました。

――BOØWYって、ヴィジュアルをすごく大切にされていたアーティストだと思います。ベルリンでの様子を押さえた写真集だったり、映像素材であったり。アーティスト・ブランディングとして、どんなイメージをアウトプットしていこうというのは見えていたんですか?

子安 ヴィジュアルに関してメンバー自身のこだわりがすごく強かったですし、スタッフもそれを理解していましたね。そういう意味での迷いは無かったと思います。ちなみに、ベルリン・レコーディングをコーディネーションしてくださったのが、GSで活躍された加藤宏史さんがロンドンで設立したL.O.E ENTERTAINMENTという会社でした。そこからヴァン・モリソンやミック・テイラー、ケイト・ブッシュなどと共演されたクマ原田さんにつながったんですね。クマさんが現地コーディネーションをしてくださいました。さすがにヨーロッパの暗い感じの空港に降り立ったときは心細かったんですけど、クマさんが空港でにっこり笑ってらっしゃって、ほんと助かりましたね。沢田研二さん、布袋さんのソロ、花田裕之さん、今井美樹さん、高宮マキさん、湯川潮音さんのツアーやレコーディングに参加されてますね。

――クマさんとの出会いはそこでだったんですね。その後も、クマさんとの付き合いが続いていくわけですもんね。

子安 そうですね、いろんな形で続いていきますね。

――そんな環境でレコーディングされた『BOØWY』が、今回24bit/192kHzとして、ハイレゾ音源で配信されますが、聴かれてみていかがでしたか?

子安 ベルリンの素晴らしい環境の中で録った本当にいい音なんで、それが30年たって、時代のいろんな進歩とともに当時のスタジオで録音した環境に近い音で聴けるというのは感動ですね。空気感ってやっぱり大事で、当時の思い出がよみがえってきましたよ。

――今回テッド・ジェンセンによる、オリジナル・アナログ・マスターからのリマスタリングということで、こだわりも感じますね。オリジナルを忠実にされているなと感じました。

子安 そうですね。いいマスタリングをしていただきましたね。本当に、聴き所がたくさんあると思います。まずは、最初の出音、1曲目「DREAMIN’」のリフの鮮やかな響きがすごく印象的でした。

――では、ちょっと聴いてみましょうか。

 

note「DREAMIN’」(試聴

 

子安 いや~、かっこいいですよね(笑)。あの頃のベルリンの空気感がよみがえってきます。

――ハンザ・トンスタジオで録ったからこそこの硬質なビート感が生まれて、その後BOØWY以降、ビートロック的なカルチャーが生まれて80年代末にバンドブームが起きました。佐久間さんも、日本のオリジナルのロックを生み出す方法論をBOØWYと出会ったことで掴んで、その後のプロデュースワークにも活かせたと話されてましたね。子安さんはもともと大瀧(詠一)さん周りで書生として学ばれていたと思いますが、ニューウェーヴなロックと、日本ならではのポップミュージック・センスを上手く融合したBOØWYならではのオリジナルなロックを、どのようにとらえられていましたか?

子安 最初にデモテープを聴かせてもらったときの印象ですね。デモの時点でとても素晴らしかったんですよ。作品もいいし、歌も素晴らしいし、いままでにない新しさを感じていました。これはどこまで化けていくんだろうと、未知な感じがすごくしました。

――布袋さんは、デモテープの時点ですごく作り込まれてきますし、音楽的才能というのをこの時点で感じられたりしましたか?

子安 最初に20曲以上デモテープで聴かせてもらって。これはこういう傾向の曲という風に、方向性として3つぐらいに色分けしたんですね。それを見ても単にビートロックとは括れないような音楽性、スケール感の大きさ、幅の広さを感じていました。それこそ、今回ボーナストラック的に収録されている「“16”」なんかは、そうして色分けした中の2つの楽曲をひとつにしたらどうなるんだろう?みたいなところから始まって生まれた曲なんです。

――なぜ、もともとは別々だった曲(未発表曲の「TEDDY BOY MEMORIES」と「BOOGIE」)をひとつにされたんですか?

子安 みんなでミーティングをしてた時に……、誰が言い出したのかはちょっと思い出せないんですけど、「頭のスローパートと、アッパーなパートをくっつけてみたら面白いんじゃないかな?」って話で盛り上がったんですね。

――かつてのインタビューでも、子安さんがこの曲をとても推していた記憶があるんですけど。

子安 個人的にとても好きな曲なんですよ(笑)。

――「“16”」は、1985年6月1日にリリースされた、シングル「ホンキー・トンキー・クレイジー」のカップリング曲として収録されたわけですが、なぜ当時はアルバムに収録されなかったんですか?

子安 ベルリンでのプロジェクトでは一番最後にレコーディングした曲だったんです。アルバムに先駆け、シングル盤「ホンキー・トンキー・クレイジー」を出す上で、B面はアルバムに入っていない曲にしようということになりました。

――「ホンキー・トンキー・クレイジー」が、BOØWYの1stシングルとなりましたが、この曲についてはいかがですか?

子安 「ホンキー・トンキー・クレイジー」は、メンバーにシングル候補をデモで聴かせてもらったときに、もう一回作り直してくれないかというお願いをしたことがあって……それに応えてくれた作品なんです。そういう意味でも思い入れが強い曲ですよね。

――この曲だけ、作詞作曲が「BOØWY」名義になってるんですよね。

子安 そうなんですよね。レノン=マッカートニーじゃないけれども、みんなでとにかく作り上げた作品ですね。どこが氷室さんで、どこが布袋さんのパートかって考えると面白いかもですね。

――ビートロック・バンドだけではない、オールディーズ的なポップ感をニューウェーヴで料理したかのような、オリジナリティあふれるポップセンスが開花してますよね。

子安 そうなんですよ。引き出しの多さがすごいですよね。あのコーラスワークを含めて、ロックバンドの方法論として画期的だと思いますよ。あと忘れられないのは、とにかく彼らはレコーディングが早かったですね。彼ら自身が、どういう出来上がりになるかっていうのが最初から見えていたんでしょうね。

 

note「ホンキー・トンキー・クレイジー」(試聴

 

子安 ライブでほとんど毎回演奏されていた曲ですね。外人女性のコーラスや、掛け合いでバンド名があったり、BOØWYらしいシングルへのアプローチがみられますね。

――そういえば、ベルリンのレコーディングのあと、ローリングストーンズ、ヤードバーズ、レッドツェッペリン、ザ・フー、キングクリムゾン、イエス、ジミー・ヘンドリックス&エクスペリエンス、ピンクフロイドなどが出演したロンドンの名門ライブハウス、マーキー・クラブで初海外ライヴをBOØWYは行っているんですよね。

子安 そうなんです。ちなみに、私はライヴには行ってないんですよ。メンバーはレコーディングが終わったらイギリスに渡ってライヴをやりました。私と佐久間さんは、マイケルといっしょにスタジオに残ってミックスの作業をやって、終わってからロンドンに合流したんですね。

――合流はされたんですね。

子安 当時はベルリンから日本には直行できなかったんですよ。パリかロンドンかモスクワからしかアプローチできなかった。帰り道だったんですね。

――当時、海外ライヴって画期的だったんじゃないですか? しかも名門マーキー・クラブでなんて。

子安 L.O.E ENTERTAINMENTがコーディネーションしてくれたおかげで実現したんですよね。後に映像集としてリリースした『“GIGS”BOX』に当時の模様が収録されていますね。

――そして、帰国後は4月に赤坂ラフォーレミュージアムで、マスコミを招いたコンベンション的なライヴを行い、6月には無謀といわれながらも渋谷公会堂で初のワンマン公演を成功させるという、ものすごいスピード感で動員を広げていきました。このスピード感を、子安さんはどう感じられていましたか?

子安 1985年歌謡曲全盛の当時、BOØWYのようなロックバンドが、どうやって世の中にアプローチしていくかって方法論は無かったんですよ。当然テレビに出れる場所は無いし、ラジオでもなかなかかかりませんでした。そんな中で大事だったのがライヴで直接ファンに伝えるということ。あと、レコード店の店頭、そして有線。新宿有線で1位を獲ったりしていました。あとはソニーさんが旗振りになって『PATi PATi』など、音楽雑誌が盛り上がってきていたんです。我々が徹底してやったのはこの4つでしたね。

――そして同時期に、レベッカが売れてきたり、TM NETWORKや米米クラブ、バービーボーイズなど、新世代のバンドが同時期に現れて、ジャンルは違えど音楽シーン全体に勢いが生まれつつあったと思います。BOØWYは、動員力だったり常に開拓者として一歩先を走っていた感じがあるのですが、子安さんの中では、80年代中盤に生まれた新しい音楽シーンに関してどのようにお考えでしたか?

子安 振り返ってみてそうなっていたんだなって感じなんです。BOØWYをやってる最中は、とにかく短期間で駆け抜けたバンドだったのでまわりは見えていませんでした。今と違ってネットもないですしね。常にレコーディングして、ツアーしてプロモーションをやって……という繰り返しで。一切振り返ることがなかったんですよ。とにかく目の前にいるファンの人たちを信じて、作品を届け、ライヴをすることが最大のテーマでした。

――そうですよね、1985年に3rdアルバム『BOØWY』をリリースして、1986年には武道館でワンマン、1987年のクリスマスに渋谷公会堂で伝説の“解散宣言”をしてしまったワケですもんね。実質3年で駆け抜けたという。短いといえば本当に短い。

子安 そうなんですよ。いま、同じようなことを他のバンドでやろうとしても絶対にできないと思います。あの奇蹟的なスピード感というのは。

――それこそ、佐久間さんとの出会いであったり、成長のきっかけとなった海外レコーディングなど、いろんな要素が上手く噛み合ったということなんでしょうね。

子安 結果として彼らのすごい才能がどんどん外に外に広がっていったということが最大の成功の理由なんでしょうね。

――才能ということでいうと、「BAD FEELING」という曲は布袋さんがソロで歌い継がれてますが、この印象的なイントロのギター・カッティングであったり、パーカッシヴでグルーヴィなファンクチューンというのは「只者じゃない!」ですよね。日本の曲でああいうセンスって今を持ってなお無いですよね。

 

note「BAD FEELING」(試聴

 

子安 ほんとそうなんですよ。3ピースのギターバンドでの表現として驚きますよね。いかに音楽性が高かったかがわかると思います。BOØWYならではのオリジナリティですね。ハイレゾだと、アタック感が絶妙に伝わってきますね。

――レコーディングでは、様々なアプローチがあったと思いますが、「黒のラプソディー」ではパブロックっぽい要素だったり、「BABY ACTION」はリズミカルなナンバーだったり、「唇にジェラシー」は氷室さんらしい艶やかなナンバーなど、いろんな要素が詰め込まれています。ディレクターとしてBOØWYを形にしていく上で、子安さんの中で大事にされていたことは何ですか?

子安 私がやったことっていうのは、彼らが才能を発揮できる環境をつくるっていうことだけだったと思うんですよ。彼らが才能を発揮してくれればそれが一番いいワケなんで。そこが一番気を使ったところですね。

――この『BOØWY』というアルバムは、10曲中半分が氷室さん曲というバランスで成り立っているんですよね。その中で「CHU-RU-LU」という曲は、氷室さんと松井さんがアマチュア時代に在籍していたデスペナルティというバンド時代に制作された「ブルー・シガレット・ラブ」という曲が原曲で、BOØWY以前からあった曲なのですが、この曲のデモが3バージョンほど海賊版として出回っていて、聴いているとBOØWYというバンドが、ニューウェーヴの洗礼を受けて出来上がっていく過程というのが見えるんですよね。最初すごく歌謡テイストだったものがどんどんセンスが生まれ変わっていくんですよね。

子安 なるほどね。私の出会いは3枚目のこのアルバムからなので、それ以前はわからないんですけど、そのお話はわかるような気がします。3枚目の『BOØWY』というアルバムは、彼らのこれまでとこれからが絶妙に交差している作品ですね。そして、翌年のリリースとなる4thアルバム『JUST A HERO』でバンドとして完全に覚醒していきます。

――ですね、覚醒という意味では「DANCE CRAZE」という布袋さんのソロボーカル曲がアルバム『BOØWY』に入っているのはインパクトがありました。デモでは、実は氷室さんヴァージョンもあるんですよね。

子安 みんなでミーティングをして「これは布袋さんが歌ったほうがいい」と一致した意見だったと思いますね。このアルバムはいま仰られたように、いろいろヴァリエーションがあるんだけれど、別の言い方をすればひとつの色で統一されている。そこがBOØWYらしさを生んでいてすごいなと思いますね。

――それこそ、3枚目にしてはじめてバンド名をタイトルにつけていますよね。

子安 事務所もレコード会社も変わって、心機一転再スタートという意味合いは強かったのでしょうね。変な大人にもう騙されないぞっていう決意もあったのかな(苦笑)。

――4人の目が並ぶというアートワークもすごくインパクトがあるんですけど、どうやってこういう形になったんでしょうか?

子安 これはもう亡くなってしまった私の同期なんですけど、デザイン部にいた小林さんという方が出してくれたアイデアなんですよ。初めて、事務所のユイ音楽工房の会議室でメンバーと会ったときに、とにかく目の力の強さをすごく感じたんです。迫力があるので怖かったんですよ。向こうからすれば「どうせまたレコード会社の人間に俺たち騙されるんじゃねえか?」みたいな、そういう穿った目で見ている感じがひしひしと伝わってきまして(苦笑)。なおかつ、「子安さん、いままでどんな(アーティストを)担当をされてたんですか?」となって「えーっと、薬師丸ひろ子さんです……」と言ったらみんな椅子から転げ落ちそうになって(笑)。「俺たちロックバンドなのに!」みたいなことでね。

――ハハハ(笑)。当時、子安さんって何歳ぐらいだったんですか?

子安 1985年ということは……、28歳ですね。アートワークが目をフィーチュアしていたのは象徴的でしたよね。

――このアルバムの中で代表曲といえば「CLOUDY HEART」があります。この曲は元々はライヴでもやられていた曲で、「ROCK’N ROLL」というタイトルだったんですよね。

子安 そうなんです。レコーディングしている最中もまだ「ROCK’N ROLL」という曲名でした。でも、エンジニアのマイケルが氷室さんの歌を聴いて「これはCLOUDY HEARTな感じだね」と言ったんですよ。

――この曲は、子安さんにとっても思い入れの強い曲なんじゃないですか?

子安 いやあ……もうすごく強いですよね。このアルバムは「DREAMIN’」から始まって、この「CLOUDY HEART」で終わっていくわけですけど、この曲はやっぱりBOØWYの、彼らにしかできない世界観を持っているし、彼らが解散するっていうのがわかったときにBOØWYの最後の曲はこの曲にしたいなと勝手に思ったことがありました。

――なるほど。

子安 1987年にシングルで「MARIONETTE」が出て、6thアルバム『PSYCHOPATH』も出て。会社からはこのアルバムを売り伸ばすために、アルバムから一曲シングルカットしろと、当時の上司の石坂敬一さんからありました。石坂さんは「PLASTIC BOMB」がいいとアドバイスを頂いたんですが、その時実はすでに解散することが決まってたんですね。でも、石坂さんにも誰にも言えなかったんですよ。そんなこともあって解散ということだったら、やはりA面は「季節が君だけを変える」だろうと。で、シングルなのでB面があるわけですけど、ここは彼らの最後の作品だから……A面が終わってB面ですべてが終わるから「CLOUDY HEART」しかないと。少し音も足したりして……、メンバーにとっても我々スタッフにとっても、もの凄い思い入れの深い作品ですよね。

 

note「CLOUDY HEART」(試聴

 

――あらためて、音がいいですよね。ポイントは、イントロのアルペジオの音の響きですよね。

子安 いいですよねぇ。当時のライヴでは、この曲の前に氷室さんのMCが長かったんですよね。いろんなことを思い出しますね。何より大事なのは、音だけじゃなくてベルリンの空気感がこの中に入ってるということですね。それがすごく感じられます、この音像に。

――以前、氷室さんにロング・インタビューをさせていただいたときに、子安さんのことを伺ったら「大事な友達です」と言われていて。そんな子安さんから見て氷室さんというのはどんな方なのでしょうか?

子安 とにかくとんでもない才能を持った方ですね。あの声は唯一無二のものだし。ものすごく情熱を持ってる方だし。触ると火傷するぐらいのエネルギーを持たれていますね。

――その勢いで引っ張っていったところもありそうですもんね。布袋さんはどんな方だったでしょうか。

子安 氷室さんとはまた違った才能の塊の人ですね。レノン=マッカートニーじゃないですけど、フロントの二人が違った才能だったからこそ、バンドは掛け算以上のものになったのでしょうね。布袋さんは、プレゼン能力も高いんですよ。説明というのがすごく上手いですよね。だからうちの会社では、これは冗談ですけど、うちの会社の営業部長をやって欲しいぞって感じで(笑)。天才的なプレゼンテーションをされますよね。

――じゃあ、松井常松さんは?

子安 松井さんは、すごいピュアですよね。後のソロアルバムにも佐久間さんと作り上げた名盤がありますね。それこそ、アルバム『BOØWY』のレコーディングで佐久間さんにみっちりしごかれ。ベーシストとしてのスタイルが確立されていきました。

――高橋まことさんについてはいかがでしょう?

子安 最高のドラマーであり、最高のキャラクターですよね。とにかく彼がいるからBOØWYってやっぱりBOØWYなんだなっていう。他の3人にないあのムードメーカーなノリですね。たまにレコーディングで、ドラムを叩いてたと思ったらいきなり大声で叫び出して、何事かと思ったら自分の足を打ってたっていう(笑)。バスドラムの音がだんだん小さくなるから変だなと思ったら、叩いてるうちにバスドラムが前に動いてたりとか(笑)。そういう愉快なネタを提供してくれて、スタジオが非常に和むんですよ。

――いまの時代、アナログもまた盛り上がりつつあり、8月には音の良い重量盤のアナログもリリースされますが、高音質CDやBlu-rayオーディオ盤など、オーディエンスの需要に応えることって素晴らしいことだなと思います。次世代への音楽文化の継承にもつながるんですよね。CDに変わる音楽を楽しむフォーマットは、音楽配信やストリーミング・ビジネスなど、いまは本当に過渡期だと思いますが、そうした中で『BOØWY』という作品を高音質なスタイルでリリースできるということは、当時ディレクターだった子安さんとしてどのような感覚なのでしょうか?

子安 時代が進歩して、様々な高音質なフォーマットで聴いて頂けるというのはスタッフ・サイドとしてもすごくうれしいことです。特にこのアルバム『BOØWY』は、最初から最後までアナログでレコーディングしているので、そんな意味ではハイエンドに最も対応している作品なんですよ。

――アルバム『BOØWY』が、24bit/192kHzハイレゾ化されたことは、ファンにとってうれしいと同時に、新たなリスナーの方が聴くきっかけにもつながると思います。あらためてBOØWYの音楽性の高さが伝わると嬉しいですね。あと、最後にお聞きしたいのが、当時の東芝EMIの制作部では、洋楽制作部時代にザ・ビートルズやピンク・フロイドを手がけ、原田知世、薬師丸ひろ子、本田美奈子らを育て、クリエイションを海外で売り出し、音楽業界に大きな貢献をされた石坂敬一さんがボスだったと思いますが、今作『BOØWY』のレコーディングにおいてどんなやり取りがありましたか?

子安 石坂さんご自身が元々欧米のロックを日本に紹介されていた方なんですね。「お前ら、ディレクターはとにかく海外に行かなきゃダメだ!」という持論をお持ちだったんですよ。普通なかなか海外レコーディングって社内では言い出しにくかったりするんですけど、石坂さんはチャンスがあるんだったらとにかく行けと。絶対にプラスになるからいろんなことを吸収して来いと。すごく背中を押してくれましたね。

――そうなんですね。

子安 その代わり、当時はパソコンも、FAXすらまともになかった時代なので。海外に行った際は、毎日電話で報告をしなきゃいけなかったんです。だから石坂さんが会社に出社されたころを見計らって、ベルリンで深夜に、毎晩メンバーがみんな見てる中で電話していました(苦笑)。制作費を抑えるために、私と事務所の糟谷(銑司)さんとマネージャーの土屋さんは3人部屋で、メンバーはそれぞれ2人部屋で、佐久間さんは1人部屋でした。夜は広いところということで、わたしがいた3人部屋にみんなで集まってお酒を飲んだりしてたんですよ。そのタイミングで必ず電話しなきゃいけないという(苦笑)。

――ちょっと緊張しますよね(苦笑)。ベルリンでは観光的なこともできたんですか?

子安 スタジオがあったのが西ベルリンなんですが、観光客は24時間だけ東ベルリンに行って帰ってこれるという制度があったんです。「じゃあ子安さん偵察してきてよ!」ってことになって(笑)。ひとりで東ベルリンに行きました。ドイツ語かロシア語しか通じなくなるんですね。心細いのですが、カフェとか見つけてお茶飲んだりケーキ食べたりして、帰ってメンバーやスタッフに報告しました。で、次の日に残りの全員で行ってましたね。なので、東ベルリンでの撮影の際は僕だけ留守番してました(笑)。

――では、最後にアルバム『BOØWY』秘話を是非……。

子安 そうですねぇ。細かいことですよ。当時は24チャンネルのアナログ・マルチトラック・レコーダーで録音してまして。レコーディングが終わって、メンバーはロンドンに行って、今度はそのテープのミックスダウンが始まったんですけど……なぜか、なぜだかはいまだにわからないんですけど、その前に使っていたエンジニアが、テープレコーダーの1chから24chと、通常の逆につないでいたんですよ。なので、マイケルがマスターに信号を入れる作業をやっていて、空いてるチャンネルに信号を入れ始めたんですけど、何か変だと急に言い出して。テープが逆にセットされていたことに気がついたんですね。そこで、なんと音が入ってるところに信号を入れてしまったんですよ。で、青ざめて「俺はもう一生このまま西ベルリンから帰れない……」と絶望したのを覚えています(苦笑)。結果、ラッキーだったことにドラムのエフェクトした音のチャンネルだったので、それはミックスのときに再現できたんですよ。これがもしボーカル・トラックだったらと思うと、冷や汗どころじゃないですね……。

――まさに不幸中の幸いという奇跡的なお話です。いろんなことがありつつ完成した作品だったということですね。貴重なお話をありがとうございました。

 

 『BOØWY+1』

(画像クリックで購入ページへ)

 


 

【プロフィール】

子安次郎(こやすじろう)

ユニバーサル・ミュージック 執行役員 Prime Music マネージング・ディレクター 兼 USMジャパン 邦楽カタログ本部 統括本部長
1956年東京生まれ。大学在学中に大滝詠一氏と出会い、「ナイアガラ・エンタープライズ」において、「書生」として学ぶ。大学卒業後、東芝EMIに入社し、3年間の営業部配属を経て、制作部門に異動。薬師丸ひろ子のADなどを担当後、BOØWYを担当。BOØWY3rdアルバム『BOØWY』から6thアルバム『PSYCHOPATH』を制作し、バンドをブレイクへ導く。その後、ウルフルズなどを担当し日本のロックシーンを牽引する。