原田和典の「すみません、Jazzなんですけど…」 第13回

~今月の一枚~

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Nat King Cole
『The Christmas Song』

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 さあ、一年で一番あわただしい時期の到来です。あれよあれよと、超高速で時間が流れる時期が今年もやってきました。

 12月24日はごぞんじ、クリスマス・イヴ(80年代には「Do They(=飢餓の犠牲者) Know It’s Christmas?」という曲もありましたが)。11月ごろから商戦はこの日に向けて激しさを増し、洋菓子業界はケーキの予約獲得に動き回り、いっぽう有線放送業界はコンビニ、スーパー、牛丼店などあらゆるところでクリスマス関係の楽曲を流します。24日は“イヴ”なので本番はあくまでも25日なのですが、25日の夜が明けた時点で我々日本人の“クリスマス”はもう終わっています。あとはひたすら、大みそかと正月に向けてまっしぐら。ケーキやサンタやトナカイに替わり、年越しそば、おせち料理、鏡餅、門松、みかんなどにスポットライトがあたります。年末の1週間、日本は驚異的な変わり身の早さで“洋”から“和”へと遷移するのです。すげえ柔軟性。さすが、「あんぱん」や「てりやきバーガー」を発明した国です。

 でもぼくは、この年末のせわしなさがけっこう好きです。ほぼ1週間のあいだに「クリスマス・プレゼント」と「お年玉」の両方がもらえ(「モノ」と「カネ」に分かれているところが、また素晴らしい)、しかも学校は休み。テレビのチャンネルをひねるとハナ肇や堺正章がガンガン笑いをとっていて、シーズンオフの野球選手が趣味の悪いセーターを着て苦み走った顔でなかなか上手に演歌を唸るのを見ている。それがぼくの子供時代の正月でした。北海道は元旦ではなく年末におせち料理を作って食べるので、両親も祖父祖母も1月1日は別にやることがありません。ただひたすらゴロゴロするわけです。そのゴロゴロが終わり、3学期(北海道は1月下旬から)が始まるころには、こんどはバレンタインデーに向けて猛烈なチョコレート商戦が始まります。洋菓子業界の、クリスマス・シーズンにつづく儲け時です。

 この2016年も何百もの新しいクリスマス・ソングが作られては、この時期にターゲットを絞って出回っているはずです。「ああいい曲だなあ」「これは売れるよなあ」と言いたくなる曲も多々あります。が、それらを耳にしてしまうと、かえってむしょうに聴きたくなるのが古き良きクリスマス・ソングです。といっても直球の讃美歌ではちょっとハードルが高い。ジャズやポップスの要素があって歌がうまくてディクションが美しくて(=単語がききとりやすい)声にコクがある。そうなるとぼくにはフランク・シナトラナット・キング・コールしか思い浮かびません。なかでもコールは「ザ・クリスマス・ソング」という大ヒットを持つ、この時期にはうってつけの大歌手です。あれはもう20年ほど前でしょうか、ぼくはクリスマス前後のニューヨークを旅したことがあります。今よりももっと英語が不得手で財布の中身はスカスカ、とにかく外は寒くて、雪が靴と靴下の間に入り込んでくるわ道に迷うわで散々でした。ようやく安く食べられそうな立ち食いスタンドを見つけ、めちゃくちゃな英語でピザひと切れとコーヒーのSサイズを注文し、さあ食べようかという頃、トースターの真上、天井に近い棚に置かれていたオンボロのラジオからナット・キング・コールの歌う「ザ・クリスマス・ソング」が聴こえてきたのです。ぼくは何か救いを得たような気持ちになり、コールの暖かな歌声の効果で元気が戻って、あたりをゆく人にガンガン道を尋ねながら宿にたどりついたのでした。

 この『The Christmas Song』を聴いて、ひとりでも多くの人にナット・キング・コールの魅力を知っていただき、かつてこんなにハートウォーミングなシンガーがいたのだということを心にとどめてもらえたらと思います。彼は1965年に亡くなってしまいましたが、もともと録音の良さに定評のあるキャピトル・レコード専属だったこともあり、そのサウンドはまったくといっていいほど“褪色”を感じさせません。しかもこれはハイレゾなのです。レコーディング中、歌詞やメロディに寄せていた彼の魂が歳月の流れを飛び越えて伝わってくる・・・と書いても決して過言ではないでしょう。2015年の大みそかには愛娘のナタリー・コールも旅立ってしまいましたが、弟のフレディ・コールは健在。コンサートでは必ず“兄、ナット・キング・コールに捧ぐ”というトリビュート・コーナーも聴かせてくれます。フレディはたびたび来日しているので、ぜひそのスケジュールをチェックされることもお勧めいたします。

 以下は余談です。ナット・キング・コールは1961年に初来日公演を行なっています。プロモーターは永島達司氏でした。そして64年、ザ・ビートルズが全米進出し、キャピトル・レコードに迎えられます。つまりコールと“レーベル・メイト”になったのです。この年のハリウッド・ボウル公演の観客席には、まだ14歳だったナタリー・コールの姿がありました(父のコネではなく、自分でチケットを買ったとのこと)。取材を受けた彼女は「ビートルズって、とってもチャーミングなの。でも歌は私のパパのほうがうまいわね」と発言しています。ビートルズは66年夏にコンサート活動を休止しますが、直前に日本で3日間5公演を行ないました。そのプロモーターが永島氏であったことは、改めていうまでもないでしょう。

 


  

■執筆者プロフィール

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原田和典(はらだ・かずのり)

ジャズ誌編集長を経て、現在は音楽、映画、演芸など様々なエンタテインメントに関する話題やインタビューを新聞、雑誌、CDライナーノーツ、ウェブ他に執筆。ライナーノーツへの寄稿は1000点を 超える。著書は『世界最高のジャズ』『清志郎を聴こうぜ!』『猫ジャケ』他多数、共著に『アイドル楽曲ディスクガイド』『昭和歌謡ポップスアルバムガイド 1959-1979』等。ミュージック・ペンクラブ(旧・音楽執筆者協議会)実行委員。ブログ(http://kazzharada.exblog.jp/)に近況を掲載。Twitterアカウントは@KazzHarada