牧野良幸のハイレゾ一本釣り! 第8回

第8回:ヴァレリー・アファナシエフ『ベートーヴェン:悲愴・月光・熱情』

~ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調作品27の2「月光」~

 

 

 あ~あ、とうとうピアノがまともに弾けずに人生を終わるのだなあ。
 還暦が視野に入ってきて、そう思う今日この頃である。

 僕の部屋にはピアノタッチの電子ピアノがずっと置いてあるのだけれど、ここ10年くらい蓋を開けたことはない。その前だってろくに練習していないわけだから、今現在の僕のピアノの腕前はゼロである。

 思えば30歳の時、子どもが生まれる寸前に「今買わなければ、もう買えない」と、貯金を全部はたいて頭金にしてローンを組み、その電子ピアノを買ったのだった。高校生の時、ブルグミュラーまで練習したピアノを再び始めようと思ったわけである。

 計画では30歳から毎日コツコツと練習するつもりだった。そうすれば「60歳になった頃にはベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタさえも弾けるのではないか?」と思っていた。他人に聞かせるわけではない。指が回ればいいという程度なら弾けるようになるのではないかと。

 しかし音楽というものは、聴くのは楽しいが、演奏するのはキビシイ。たとえ家庭のピアノでも実にキビシイ。「毎日コツコツ」ができなくて、数年で練習をやめてしまった。

 こうしてベートーヴェンの後期ピアノ・ソナタを弾く夢は消えた。色気を出して楽譜を買ってみた「悲愴」の、ゆっくりした第2楽章さえ弾けない。結局、高校生の時、なぐさみで練習していた「月光」の第1楽章、それもその最初の部分だけが、唯一僕が奏でることのできたベートーヴェンとなった(「エリーゼのために」は抜いておく)。

 そんなわけで、もうベートーヴェンは“聴く側”と割り切って、今回の「ハイレゾ一本釣り」は三大ソナタから「月光」である。演奏はヴァレリー・アファナシエフ。“奇才”といわれるアファナシエフも、ついにハイレゾで聴けるようになったかと感慨深い。それもDSD配信である(他にFLACもあり)。

 「月光」の第1楽章。かつて自分も練習していたせいで、昔から一流ピアニストの演奏を聴いても、楽譜や鍵盤のタッチなどが思い出されて、どこか“資料”として聴いてしまうところがあった。しかしアファナシエフの弾く第1楽章は、そんなことを考えさせないほど引き込む演奏だ。

 左手の伴奏はまるで時計の振り子のように素朴である。しかしこれが深く水の底に潜っていくよう。聴き慣れた有名な旋律も一音一音が心の内に留まっていく。まるで“音楽の庭”のなかをゆっくりと巡っているようだ。DSDだから、なおさら染み入ってくる。クリアでありながらも暖かい響きなのだ。

 実のところ、この「月光」でさえ、アルバムのなかでは(アファナシエフにしてはだが)オーソドックスな演奏である。同時収録の「悲愴」と「熱情」は、よりアファナシエフの“奇才”ぶりが発揮されているので、こちらもぜひ聴いてみてもらいたい。こういう演奏を聴くと、ピアノへの未練もなくなるのである。

 


 

今回ご紹介した作品はこちら!

「鬼才」と言われるピアニストの名演をハイレゾで!

ヴァレリー・アファナシエフ
『ベートーヴェン:悲愴・月光・熱情』

DSDFLAC

 

 
【牧野 良幸 プロフィール】
 
1958年 愛知県岡崎市生まれ。
1980関西大学社会学部卒業。
大学卒業後、81年に上京。銅版画、石版画の制作と平行して、イラストレーション、レコード・ジャケット、絵本の仕事をおこなっている。
近年は音楽エッセイを雑誌に連載するようになり、今までの音楽遍歴を綴った『僕の音盤青春記1971-1976』『同1977-1981』『オーディオ小僧の食いのこし』などを出版している。
2015年5月には『僕のビートルズ音盤青春記 Part1 1962-1975』を上梓。