「匠の記憶」第3回 音楽ディレクター(小泉今日子など) 田村充義さん

「匠の記憶」第3回目のゲストは、3月21日に全シングルがハイレゾ音源で一斉配信される小泉今日子さんの当時のディレクター、田村充義さんです。今回のハイレゾ化に際しても監修で参加されています。当時のヒットの裏側を語る貴重なインタビューをお楽しみください。

(聴き手:安場晴生/ソニー・ミュージック)

 


 

インタビューの様子(イラスト:牧野良幸)

 

――田村さんが小泉今日子さんを手がけられたのは、どのあたりからでしょうか?

田村 最初は会社の先輩が担当していて、僕は5枚目のシングル「まっ赤な女の子」からです。その前はSpectrumや山田邦子さん、コスミック・インベンションを担当していました。実は「まっ赤な女の子」は次のシングル「半分少女」とほぼ同じ時期にできていた楽曲なのですが、あえてこちらを先に出すことにこだわりました。

――どちらも作曲は筒美京平さんですね。

田村 当時のPopsはとにかくまずは京平先生という。いつも順番待ちでした(笑) すべての業界の情報はまずは京平先生に集まるという。「まっ赤な女の子」には面白い音を入れて新しいサウンドにしたかったので、それなら「ヴォコーダー」(英: vocoder、電子楽器やエフェクターの一種。代表的な使用例はロボットボイス)だと。このころは京平先生はほとんど編曲はされていなかったので、新しい音ならば佐久間正英さんだということになりました。多分彼の初めてのアイドルの編曲ではないでしょうか。彼女はこの頃より少し前に髪の毛をショートにしたのですが、糸井重里さんの手がけた「日刊アルバイトニュース」のCMの2代目キャラクターに選ばれて、一瞬本人とわからないくらいのショートカットへの変身のインパクトが受けて評判になり、これがひとつのきっかけとなってどんどん広がっていったと思います。

――ではハイレゾ音源を一曲聴いてみましょうか。

 

note「渚のはいから人魚」(1984年)

 

田村 これははじめてのオリコンナンバー1の曲です。やはり特に歌がとても当時より自然な感じに聴こえていいですね。

――田村さんは今回のハイレゾ化にも関わられたということで、他の曲もすでに聴かれているということでしたので、感想をまずはお聞かせいただけますでしょうか。

田村 やはり特に歌まわりがのびやかでとてもナチュラルです。すごくいいですね。エンジニアの高田英男さんとはよく話すのですが「いい音」と「売れる音」は違います。その時代によって有線放送だったりラジオだったり、今だったらiPhoneにヘッドフォンだったり……その時代のリスニング環境に合わせて音源を作る方法もあります。でもハイレゾにするととても全体の統一感も出て、しかもナチュラルになってすごくいいですね。

――ではもう一曲聴いてみましょうか。

 

note「艶姿ナミダ娘」(1983年)

 

田村 この曲は馬飼野康二さんなのですが、彼は本当に打ち込みと生音の融合が素晴らしくて、ハイレゾだとそのあたりもすごくいいですね。

――本当にいろいろなアレンジャーや作家の方とお仕事をされていますが、小泉さんのポジションなどはどう考えられていましたか?

田村 まずは、3番手を狙っていました。僕が担当した当初、彼女はおそらくアイドルで言うと5番手くらいだったのではないかと。で、当時でいいますとまずは松田聖子さん、中森明菜さんのお二人がいて、とても歌の力では太刀打ちができない。当時の流行りの言い方でいうと「良い子 悪い子 普通の子」(1981年スタートの人気番組「欽ドン!良い子悪い子普通の子」から)の「普通の子」が小泉今日子のポジションだと。でも「普通の子」だからいろいろなことをやらなくては続けてはいけないので、常に変化は考えていました。

――その変化をコンペではなく、作家さんとの決め打ちでやるという事に関してのお考えをお聞かせ願えますでしょうか。

田村 それはもう簡単なことで、曲を集めた中から選ぶのは「セレクター」。僕の仕事は「ディレクター」です。あるものから選ぶのではなくて、生み出して新しいものをどんどん作り出すのが役割です。Victorの先輩ディレクターからそう教わりました。

――では、コンセプトも決められて、タイトルとかももちろん?

田村 そうですね。作家の方とタイトルを出し合ったりしました。実は担当して初期の頃のタイトルは全部キャッチコピーになってるんです。制作をしているその時はもちろんそんなことは言いませんが。キャッチコピーが全盛の時代でした。

 

 

――それでは難しい質問かもしれませんが、そんな「ディレクション」の手ごたえがあった楽曲を何曲か教えていただけますか。

 

note「なんてったってアイドル」(1985年)

 

田村 まずは「なんてったってアイドル」です。この時に音楽シーンががらっと変わったんです。おニャン子クラブが出てきて「セーラー服を脱がさないで」でしょ。このタイトルでOKなんだって(笑) 絶対に負けられないと思い頑張りました。歌詞先行、楽曲先行で秋元康さん、筒美京平さんコンビで2曲同時に作った曲のうちの一曲です。「なんてったってアイドル」は詞先で、曲先のもう一曲はアルバムに入っています。

――なるほど。

 

note「木枯しに抱かれて」(1986年)

 

田村 次に時代のシーンがかわったなと思ったときに、ことさら意識してディレクションした楽曲が「木枯しに抱かれて」です。当時バンドブームでBOOWYやレベッカが出てきて世の中の音楽の主流になった。そんな時代の流れを受けて、この曲ではバンドサウンドを意識しました。だからアイドルなのにギターソロとかが入っている。

――でも、バグパイプ(リード式の民族楽器。スコットランドのものが有名)のような楽器の間奏からの大サビへの展開は、バンドにはできない職業作家の方ならではの素晴らしいお仕事だと思いますが。

田村 バグパイプに聞こえる音はギターです。編曲の井上鑑さんはこの曲の作曲者・高見沢俊彦さんのアルフィーのアレンジから大瀧詠一さんのストリングスアレンジまでやってますから、そこらへんはもう。

――素晴らしいですね。

 

note「快盗ルビイ」(1988年)

 

田村 「快盗ルビイ」は……大瀧詠一さんは昔から知っていて、担当していた山田邦子さんでも仕事をしたことがあったのですが、なかなか曲を書いてくれない(笑) 映画の仕事があってやっと書いていただきました。で、歌詞は?と聞くと大瀧さんは和田誠さんがいいという。和田さんは(映画の)監督ですよ(笑) でも文章の方でもあるので、時間がない中喜んでやっていただけました。でも、レコーディングには一曲で一カ月かかりました。僕は彼女の歌入れは全部やっているのですが、この曲だけは大瀧さんです。だから他の曲ともしかしたら雰囲気が違うかもしれません。大瀧さんの仮歌入れも大瀧さんはスタジオに鍵をかけて、外に監督やら映画のプロデューサーをひたすら待たせているので、ロビーはとんでもない圧迫感(笑)

 

note「あなたに会えてよかった」(1991年)

 

――ハイレゾだと印象が違って聴こえますね。

田村 (この曲の)メンバーはね、根岸孝旨さんだったり佐橋佳幸さんだったり、小田原豊さん、編曲の小林武史さんがキーボードだったりするような当時もバリバリで、今でも一流のメンバーです。ハイレゾだとより皆さんの演奏能力が出てきますよね。この曲はアイドルと言われるジャンルでは初めてのミリオンセラーで、とても嬉しかったですね。

――これは歌詞も素晴らしいなと思ったんですけど、このあたりから小泉さんが歌詞を書かれるようになりますね。

田村 そうですね。1985年頃からペンネームで書き始めました。この曲ではレコード大賞の作詞賞を頂きました。まあ作詞をしてもらうきっかけとしては、ある時に「自分でも書きなよ」って言って。何故かと言うと「テレビに出て彼女が紹介した本が売れます」とか、そういうことがあったり、普段も話しているとドラマのここが面白くってとか、なぜ面白いかとかいうのをすごく明確に説明してくれるんです。で、「歌詞書けるんじゃないの?」って言って。

――そうなんですね。書き上げるのは早いのですか?

田村 曲によっては時間がかかったり全然書けなかったりするのもありまして、もちろん時には書き直してとかって言うもんですから、渋々やってもらってました(笑) 歌詞も手を入れて、メロディも手を入れて、大サビ作って……とかって嫌がられましたね(笑)

――まるで職業作家にやるような発注を(笑)

田村 最後の最後に「わかった」って言って。歌詞もらって、「どう?」「うん、いい」って……よかったと思って(笑)

――あと、ぜひ僕が聞いてみたかったことがあったんですけど、近田春夫さんプロデュースの「Fade Out」っていう曲が、僕は当時斬新すぎて本当にびっくりしたっていうか。

 

note「Fade Out」(1989年)

 

田村 そうですね。なんか今でもディスコでかかってるみたいですね……ディスコじゃなくてクラブですか(笑) きっかけは「来年誰とやろうか」っていうときに、2人とも「近田君でいいいんじゃないの?」って言ってて、それで会いに行ったら、「最近ハウスにしか興味ないんだよね」って言われて(笑) ビブラストーンの活動を始めたばかりの頃で、ああそうなんだって。それで出来たのが「Fade Out」です。

――その流れで言いますと、小泉今日子さんは時代ごとにスタイルは変わっても、全くぶれていないという気がします。そのあたりはいかがでしょうか。

田村 そうじゃないと残っていかないですよね。だから海外でも時代に合わせてどんどんスタイルを変えている人しか何十年もできないじゃないですか。我々の時代で言うと、ローリング・ストーンズとビートルズ、どっちが好きかみたいな話になるんですけど、そのあとだって、たとえばビージーズだってスタイルを変えるし、デヴィッド・ボウイだってみんなスタイルを変えないと、時代と合わなくなってきて、懐メロみたいになっちゃうじゃないですか。だから最初の設定から言っても、その時代その時代に敏感に作っていかなきゃならないっていうことは、どんどん変わっていかないといけないっていう風に思っていたので。

――ではどんどん変わるっていうことが前提だったとして、なぜ小泉さんはブレないんだと思われます?

田村 いろんな作家とやって、いろんなお話を伺っている中で「ヴォーカル力が強いから、個性が強いから、どんなサウンドと合わせても当てはまるから気にしないでいいよ」っていう風に言われました。

――なるほど。さっきの話とは逆のようなことなのですけど、声に関しては普通ではなく、かなりの強さを持っているっていうことなんですね。

田村 そうですね。「歌の力が強いから、何と合わせてもそんなにブレることはないから」っていうことを言われて、ああそうなのかな、と思いました。思い切ってやってみても、やっぱり歌の力が強いんだなって納得しました。

――今回、マスターがアナログのものとデジタルのものがあるのですが、ハイレゾ化にあたってそのあたりの違いはどうだったのでしょうか。

田村 デジタルのものを聴いてみたんですけど、すごく印象が違うかなと思ったら意外とそうでもなくて、デジタルのものもとてもいい感じになっていてよかったです。

――僕も聴いた感じとても良かったです。「あなたに会えてよかった」とかもマスターはデジタルですもんね。

田村 「快盗ルビイ」までアナログテープだったんで、スレイヴテープ(トラック数が足りないので、マスターレコーダーと同期させたレコーダーでトラック数を稼いでさらに録音されたテープのこと)がたくさんでてきて大変でした(笑) 大瀧さんのものはマルチテープが何本もありますので(笑)

――最後に、小泉さんとのスタジオでの印象的なエピソードなどありますか?

田村 そうですね……前任者と変わったときがやっぱり一番大変でしたね。それまでの常識があるじゃないですか。「○○はこうだ」とかいう大前提が前任者とは違っていたので、半年ぐらいケンカしてましたね(笑) 「それはだめでしょ」「え、前の人よかったよ」「いやそれはだめでしょ、歌に影響あるんだから」とか大変でした。でもそのうちむこうも諦めたみたいで(笑)

――(笑) 今日は貴重で楽しいお話をありがとうございました。

 


 

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田村 充義(たむら みつよし) プロフィール

ビクターエンタテインメントでディレクター、プロデューサーとして活動した後、独立して田村制作所を設立、同社の代表取締役となる。
アーティストのプロデュースやライブ・コンサートの企画、制作をする傍ら、新人アーティストの発掘・プロデュースや企画提供にも力を注いでいる。現在は広瀬香美、ポルノグラフィティ等をプロデュースしている。