【新譜発売】秋山和慶(指揮) 日本センチュリー交響楽団「チャイコフスキー:交響曲 第4番」配信スタート

 重鎮 秋山和慶の雄弁かつ円熟の「今」を堪能する


マイスターミュージックより、2024年には指揮者デビュー60周年を迎える秋山和慶、その円熟の「今」を堪能する必聴の新録音が到着。

P. I. チャイコフスキー: 交響曲第4番 へ単調 作品36/秋山和慶(指揮); 日本センチュリー交響楽団

DSD[11.2MHz/1bit]

FLAC[384.0KHz/24bit] FLAC[192.0KHz/24bit] FLAC[96.0KHz/24bit]

AAC[320kbps]


アルバムについて<木幡 一誠>


   来たる2024年には指揮生活60周年を迎える、まさに日本音楽界の重鎮と呼ぶにふさわしい秋山和慶。彼がミュージックアドバイザーをつとめる日本センチュリー交響楽団と取り上げたチャイコフスキーの「第4番」は、楽団と指揮者がつちかった信頼関係の麗しさを音で確認できる演奏だ。

 第1楽章の主部で顕著に認められるとおり、恣意的な変化を多用しないテンポ設定とリズムの克明な処理を得て、音楽の骨格が説得力も豊かに像を結ぶ。隅々までフレーズは端正に整い、レガートとノン・レガートの弾き分け方ひとつとっても意味深く、それが曲の構成要素ひとつひとつに、そしてその展開の過程に命を与えていく。チャイコフスキーが持つ“シンフォニー作家”としての資質の再確認を迫るがごときアプローチ。そんな正攻法の路線を連ねた末のコーダにおける緩急法の匙加減が、それゆえ必要十分にして最大限の効果をあげたりもする。中間2楽章は性格的な対比感も鮮やかで、和声的な見通しの良いテクスチュアのもと、内声や対旋律の挙動まで雄弁に浮かび上がる。そして言葉の真の意味における生命の輝きをたたえたフィナーレ。全編を通じて、自らの音楽作りに対する矜持の念を貫きながら、指揮者の棒に共感を持って応えるオーケストラの姿が、美しく音盤に刻まれていることも言い添えておきたい。

 

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー (1840-1893)

交響曲 第4番 へ短調 作品36

Ⅰ. アンダンテ・ソステヌート—モデラート・コン・アニマ

Ⅱ. アンダンティーノ・イン・モード・ディ・カンツォーナ

Ⅲ. スケルツォ・ピッツィカート・オスティナート〜アレグロ

Ⅳ. フィナーレ〜アレグロ・コン・フォーコ

 チャイコフスキーは1877年の12月に書き上げた交響曲第4番を、ナジェジダ・フォン・メック(1831-1894)に捧げた。鉄道王の未亡人として莫大な遺産を相続した彼女との間に文通が始まったのは1876年の暮れのことで、その後はパトロンとして1890年まで巨額の年金援助を受ける間柄となっていたが、実際の面会は一度もなかったというのも不思議な話である。ともかくこれで創作活動に弾みがついたことは疑いなく、1877年5月初旬の時点で交響曲第4番は第3楽章までのスケッチが進み、並行して歌劇「エフゲニー・オネーギン」まで着手を見るという充実ぶりだった。

 しかしその直後、チャイコフスキーはわずか2ヵ月で破綻する不幸な結婚生活を経験してしまう。彼は記憶していない人物だったが、ごく短期間モスクワ音楽院で教え子だったと自称するアントニーナ・ミリューコヴァ(1848-1917)という女性から、求愛の手紙が舞い込んだのが同年の4月。二人が初めて5月20日にデートをしてから3日後に婚約を交わし、7月6日に結婚式を挙げるという異例なまでの“スピード婚”に踏み切った理由は謎でしかない(チャイコフスキーは同性愛者だったという説も根強いだけに、ことさらに疑念もつのる)。

 結局のところ、夫妻はわずか3週間で別居状態となり、チャイコフスキーは妹の嫁ぎ先だったウクライナのカメンカへ身を寄せる。9月にモスクワへ戻った彼がアントニーナと過ごした12日間をもって、関係は終了を迎えた。精神的に追い詰められたチャイコフスキーがモスクワ川に腰まで浸かり“肺炎か何かを患って死のうと考えていた”ところを、通りがかりの人に助けられたという有名な逸話も、同時期のものとして伝わっている。

 こうした経緯を経た後、弟や友人の助力によりロシアを離れたチャイコフスキーは、心の安定を求めて訪れたスイスやウィーンやヴェネツィアの地で再び交響曲第4番の筆を進め、イタリアのサン・レモでスコアを完成させた。1878年2月22日にモスクワで行われた初演(ニコライ・ルビンシテイン指揮)の1週間後にメック夫人へ宛てた手紙で、彼はこれを「私たちの交響曲」と呼び、各楽章の標題的内容について詳細な文面を残している。そこに記されたストーリー性に沿った聴き方は必ずしも作曲者の本意ではないとされるが、以下の解説でも部分的に引用しておきたい。

 第1楽章の序奏の冒頭からホルンとファゴットで提示される動機は「作品全体の種子」であり、「幸福を望む我々の前に立ちはだかる運命」を表す。楽章主部は構えの大きいソナタ形式。ワルツのリズムで哀しげな歩みを続ける第1主題は「その力の前に我々は嘆くことしかできない」という言葉と呼応するものだろう。木管楽器のソロで始まる第2主題部では「現実から逃避した空想」が「魂を甘く包み込む」。そして楽章全体は「人生のすべては辛い現実とはかない夢の連続。安息の場はない」というテーマに貫かれている。

 第2楽章では“カンツォーナ風に”という発想標語どおりの歌謡性が前面に出てくる。メランコリックな主部と、バレエの舞台を思わせる動的な中間部を対置させながら描かれていくのは「過去の追憶が様々な形でよぎる、その哀しさと心地よさ」だ。オーボエのソロで始まる主部のテーマを楽章終結部にファゴットで回帰させる趣向が、音色とレジスターの対比感をもたらす一方で、それに先立つ推移句の心象風景を受け継ぐにふさわしい音楽的情調を醸し出すあたりも、見事な楽器法といえよう。

 第3楽章は終始ピッツィカート奏法で弾き連ねる弦楽セクションのアンサンブルが「ほろ酔い気分の頭に明滅するイメージ」を巧みに視覚化。管楽器が加わる中間部は「遠くを通り過ぎる軍楽隊」の調べであり、そこにクラリネットやピッコロが半ば酔狂な(演奏の難しさでも名高い)合いの手を挟む。

 第4楽章は祝祭的な空気感をふりまく第1主題と、ロシア民謡“野に白樺の樹が立っていた”に基づく第2主題を交替させる形で進んでいく。やがて“運命の動機”が劇的な回帰を果たした後、勝利の凱歌にも似たコーダが興奮の度を高めながら曲を終結へ導く。「心に喜びが見出せないなら、民衆の中に身を置き、他人の喜びを自分のものとせよ」という、人生肯定的なメッセージが託されたフィナーレ。

 


演奏家プロフィール   


秋山 和慶   (指揮) 

©TSO

 1941年生まれ。齋藤秀雄のもとで指揮法を修め、1963年に桐朋学園大学卒業。翌年東京交響楽団を指揮してデビューののち同団の音楽監督・常任指揮者を40年間にわたり務める。その間、アメリカ響音楽監督、バンクーバー響音楽監督(現在桂冠指揮者)、シラキュース響音楽監督、大阪フィル首席、札幌響首席、広島響首席、九州響首席などを歴任。また、NYフィル、ボストン響、クリーヴランド管、シカゴ響、ケルン放響、スイス・ロマンド管など世界の一流オーケストラに客演。

 これまでにサントリー音楽賞、芸術選奨文部大臣賞、大阪芸術賞、毎日芸術賞、川崎市文化賞などを受賞。2001年紫綬褒章、2011年旭日小綬章を受章。2014年度文化功労者に選出。

 現在、中部フィル芸術監督・首席指揮者、センチュリー響ミュージックアドバイザー、岡山フィルミュージックアドバイザー、東響桂冠指揮者、広響終身名誉指揮者、九響桂冠指揮者、オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ芸術顧問など多くの任を務めるほか、洗足学園音楽大学芸術監督・特別教授、京都市立芸術大学客員教授を務めている。

日本センチュリー交響楽団 


©Masaharu Eguchi

 1989年に活動を開始し、2019年に楽団創立30周年を迎えた大阪府・豊中市を拠点とするオーケストラ。現在、飯森範親が首席指揮者、秋山和慶がミュージックアドバイザー、久石譲が首席客演指揮者を務める。ザ・シンフォニーホールで開催するシンフォニー定期演奏会、ハイドンの交響曲全曲演奏・録音プロジェクト「ハイドンマラソン」に加えて、豊中市立文化芸術センターでの名曲シリーズを展開する。オーケストラ体感コンサート「タッチ・ジ・オーケストラ」をはじめ教育プログラムや地域連携事業にも力を入れている。