松尾潔の「メロウな歌謡POP」第6曲目 スガ シカオ「愛について」(1998)~本編~

第6曲目:スガ シカオ「愛について」(1998)

 

 デビューの年1997年にスガ シカオはシングル4枚、アルバム1枚を量産します。そのさまは長すぎる幼虫の時期を経て遅い春をむさぼる昆虫を思わせました。そんな大放電大会の掉尾を飾ったシングルが「愛について」です。日暮れから明けがたまでが似合う印象的なかすれ声をしたこの男性シンガーは、冒頭で「ただひとつ 木枯らしにこごえる日には」と肌寒い季節の到来を告げます。その歌詞から察するに、11月21日というリリースタイミングは周到な準備の産物だったのでしょう。オリコンの左半分(50位以内)に入ったシングルが1枚もないまま9月に出したアルバム『Clover』がトップ10入りという快挙を遂げた直後の作品とあって、「愛について」は自身の最高位(当時)となる44位のスマッシュヒットとなりました。のぼり坂の44位には数字以上の意味があることは言うまでもありません。

 ずばり、傑作でした。長時間の正座を解いたときのじーんと痺れるような痛みと快感の双方がありました。その印象は偶然から来るものではなく、この力量ある男性アーティストの経験と知識によってもたらされていたことは明らかでした。まずイントロにそれまでの3枚のシングルとの差別化がうかがえます。黒いリズムを押し出すのではなく、アイズレー・ブラザーズのクリス・ジャスパーを思わせるメロウなアナログシンセが真っ先に耳をとらえます。そして2ndシングル「黄金の月」ではやや控えめな印象をあたえていた“フーウー”という甘い多重コーラスが早くも登場します。良薬の証であるかのようにスガ印の薬はいつも苦みを失うことがないのだけれど、それでも今回は糖衣したぶん口に含みやすくなった……そんな印象がこのイントロにはありました。ままならぬ人生はビタースウィートと謳っているかのようでした。

 ここでもループは重用されています。メロディの進行とともにコードは変化しても、やがて規則的にBM7→E♭7に戻るのです。戻ってくるまでにはそれなりに起伏があっても、終点がまた始点となる。それを繰りかえすうちに終点と始点の区別は徐々に意味をなくし、この物語はどこから始まったのかさえ曖昧になってきます。

 ループ状のコード進行で歌われるラブソングはメリーゴーラウンドに似ています。つまり、愛というものは終わることなく浮き沈みを続けながら同心円状を回りつづけるものだと。行きっぱなしではいけない。帰り道をなくした思いを愛とは呼ばない。愛情の歩みだけではなく、性愛の営みもそうかもしれません。ひとりで片道切符を握りしめた男に未来をあずけられる女性はいますか?

 サウンドが呼び起こすイメージはわかりました。では実際の歌詞はどうか。 タイトルでも歌詞中でも「愛」が名詞としてしか用いられていないことにまず留意してみましょう。動詞にならない愛。「ぼくら」ふたりは観念としての愛にまだ十全たる命を吹き込めてはいないということ。だからこそ「もう少し愛についてうまく話せる時がきたら」一緒に暮らそうと男は提案するのです。慎重とも弱気とも誠実とも解釈できるけれど、繊細であることだけは確かなようです。もしかするとこれまでに同棲や結婚にしくじったことがあるのかもしれません。いや、それともこれは目の前の恋人を思いやる気持ちの現れなのか……ま、そう思えるひとは幸せですね。

 そもそも「愛について」というタイトルが投げかける、その大きさ。一見あるいは一聴しただけではこの日本語表現はファンクのビートにそぐわない気もします。ですがこの視座が生みだす「ねじれ」が強力なフックへと好ましく変態していることにやがて気づくことでしょう。タイトルの由来についてスガと直接話したことはありませんが、ハルキストを公言する彼のことですから、村上訳のレイモンド・カーヴァー短編集『愛について語るときに我々の語ること』は当然視野に収めていたはずですよね。余談ですがスガ楽曲は村上春樹本人の耳にも届いており、「愛について」のカップリング曲「バクダン・ジュース」が2004年の小説『アフターダーク』に織り込まれていたほか、翌2005年の音楽エッセイ集『意味がなければスイングはない』でもスガを論じています。ライブにも足を運んだりしているのだとか。

 でもリリース当時にぼくが真っ先に思いだしたのは、高校時代に触れた武者小路実篤の同名随筆だったりします(だとしたら笑えるのですが)。次に連想したのはフォーキー・ソウルの至宝ビル・ウィザーズの滋味あふれる78年作品『’Bout Love』。ウィザーズはスガと同じく30代でメジャーデビューした歌手でもありますからね。この直訳という可能性も否定できないかと(たぶん違うな)。

 ぼくが感嘆してしまうのは、こういった妄連想のすべてが、じつは「愛」ではなく「について」という響きから喚起されたイメージであるという事実です。「について」の勝利。この詩作センスは凡夫にはなかなか持ち得ないものですが、賞味の対象となるだけの普遍性はある。その絶妙なバランスこそ「スガ シカオという非凡」の鮮やかな証左です。

 もうひとつ、歌詞のなかで非凡なきらめきを見せる箇所をご紹介しましょう。1番のサビのあとに付加されたAメロ該当部分、その冒頭の「夜がきて あたたかいスープを飲もう」です。正直に告白すると、ぼくは長い間この部分の言葉遣いに違和感がありました。口語表現として「夜がきて」でも意味は通じるだろうけれど、より相応しいフレーズは「夜がきたら」ではないか。もちろんそうすると母音がひとつ増えてしまうけれど、それはアウフタクト(弱起)、つまり小節の前から歌いだすことで対応できたはず。ためしに歌ってみたら変拍子の趣も生まれて案外アリなんだけどなあ……。

 この違和感が解消されたのはわりと最近のことです。主人公の男女は「木枯らしにこごえる」ようなカップル。小さき市民なのでしょう。特筆すべき反社会的な資質は備えていないように見受けられます。それどころか勤勉さやつつましやかさを感じさせます。「仕事はかなりできた」と本人が述懐する会社員時代のスガの分身でしょうか。正しき社会生活を送るひとにとって、夜は必ず「きて」くれるもの。「きたら」じゃ困る。社会が乱れますからね。

 ハタチくらいからずっとフリーランスの立場で音楽業界にどっぷり浸かってきたぼくには、定時で仕事を始めたり終えたりする感覚は縁遠いものでした。時として昼(勤労時間)は明け方までつづくものだし、そもそも夜(自由時間)は「はじめる」ものであって「くる」ものではなかった。エクスキューズめいた言い方になりますが、プロのミュージシャンや音楽業界人には珍しくない感覚です。むしろこの世界で常識とされるのはこのゆるい感覚かも(だからといって良識とは思っていませんよ)。現にぼくも40代で人の親になるまではこの常識が支配的なコミュニティで毎日を過ごしてきました。

 しかし、スガ シカオはそうではなかった。97年の時点で、夜が「きて」と断言できた。「土俗的」というニュアンスの俗語を由来とするファンクを得意としているのに。これを「会社員生活の経験が生きた」と結論づけるのは早計に過ぎるかもしれませんが、はっきり言えるのは当時の彼が社会の大半を占める人びとのリアルな日常感覚と感性を有していたということです。遅いデビューでしたが、それまで見てきた景色から大きな収穫はあったのだと思います。人生に意味のない一秒なんてないのでしょう(最近知ったのですが、「愛について」の初出は95年リリースのインディーズ盤なんだそうですね)。

 ところでスガ シカオの名前が格段に広く浸透したのは自分の歌声やサウンドによってではなく、98年の年頭にリリースされたSMAPの初ミリオンセラー・ヒット「夜空ノムコウ」の作者としてでした。実はスガはここでは作詞しただけで、作曲は川村結花、編曲はCHOKKAKUが手がけています。ですが印象的に片仮名が用いられたタイトルはこの曲を「スガ シカオ度100%」と思わせるに十分でした。ややこしいことにCDシングルのカップリング曲「リンゴジュース」は作詞も作曲もスガだったので(編曲はCHOKKAKU)、このことが「夜空ノムコウ」の作曲もスガ シカオが手がけているという誤解を助長してしまったのかもしれません。歌詞だけにかぎっていえばこの盤に収められた言葉の全てがスガ製だったのですから。つまり「スガ シカオの語り部=SMAP」という構図が成立していたのです。

 1998年の年間シングルランキングのトップは161.1万枚を売り上げたGLAY「誘惑」でしたが、「夜空ノムコウ」はそれに肉薄する157.1万枚で2位を記録。スガ シカオの名前は一躍メジャーな響きを帯びることになります。その時点で川村結花(たいへん優秀な作曲家、シンガーソングライターです)の知名度がさほど高くなかったこともスガ シカオの神格化にあたっては有利に働いたかもしれません。「愛について」も収めた2枚目のアルバム『FAMILY』を6月にリリース、その出来がすばらしかったことで彼の名声は決定的なものとなりました。

 翌99年の9月にぼくは彼と再会しました。NHK-BS2の番組『BS音盤夜話』にそれぞれゲストとして招かれたのです。音楽評論家・萩原健太さんの司会のもと、1枚の名盤を取りあげてその魅力や意味性を語りつくすという座談会形式の生番組。ぼくたちが招かれたのは、はたしてスライ&ザ・ファミリー・ストーンの69年の名盤『Stand!』の回でした。パネリストに近田春夫さんとピーター・バラカンさんという稀代の論客を据えたこの番組で、ぼくたちは1時間にわたって語りあいました。これは楽しかったですね。全員で『Stand!』という名の重箱の隅をつつくような感じで。大人の部室トークといった趣でした。

 スガは2年前の初対面の時とは別人のような自信に満ちていました。スライ楽曲のリズム解釈について長いリスナー歴を感じさせる体験的見地で独自の解釈を披露もしてくれました。まさに旬のロックスターのかがやきを身にまとっていましたし、笑顔も絶えなかったように記憶しています。でもぼくはヒット経験がスガの人格を変えたとはまったく思いませんでした。プロの音楽業界にある程度身を置いた結果、もともと持ち合わせていた人なつっこさを彼も躊躇なく出せるようになっただけではないか。そう感じました。

 番組は無事終了。スタッフのみなさんから出演者たちへのねぎらいの言葉もいただき、さあ解散という段になったその時、パネリスト席を立つピーター・バラカンさんのもとにスガが近寄っていきます。はて、このふたりは以前からの知り合いだったのか……すこし怪訝に思いましたが、何やら面白そうなのでぼくもそのやりとりを見守ることにしました。「あのう、これにサインしていただけますか?」おそるおそるそう言ってスガがおもむろに取り出したのは、ボロボロに傷んだ文庫本。彼は本番のスタジオに入る前からこの本をポケットにしのばせていたのですね。ちらりと見えた表紙でそれが何であるかすぐにわかりました。なぜなら、ぼくもその本の読者だったからです。昭和64年、いや平成元年(1989年)に新潮文庫から出たバラカンさんの名著『魂(ソウル)のゆくえ』。この本にめぐり逢ってソウルミュージックを聴きはじめたという者、もっと言うならこの本を教典としてロックからソウルに宗旨変えしたという者はぼくの同世代に少なくありません。

 思いがけぬ申し出をバラカン氏は快諾した様子。本を差しだすスガの手は小刻みに震えています(誇張ではありません)。自著にペンを走らせたあと、リベラルで知られるロンドン生まれのブロードキャスターはにっこり笑ってそれを持ち主に返しました。旬のロックスターは笑っているようでもあり、泣いているようでもあります。2年前に目の表情をうかがうことさえできないほど帽子を目深にかぶっていた、あの新人ミュージシャンがそこにはいました。

 と、ここまで書いて当時のバラカン氏が何歳だったのか気になり調べてみました。その前月、つまり1999年8月に48歳になったばかりだったのですね。そうか、現在のスガさんはあの日のピーター・バラカンと同じ歳なのか……。時が流れるのは早いものですね。

 でも2015年のいま、ぼくは知っています。「愛について」で初めてファンクのリズムに出逢い、以来その信者となったひとたちが結構な数にのぼることを。そこには確かに魂(ソウル)のリレーがあることを。

 

 

「愛について」「バクダン・ジュース」に加え、
SMAPに提供した「リンゴ・ジュース」のセルフカバーも
収録した2ndアルバム!

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スガ シカオ『FAMILY』

 


 

松尾 潔 プロフィール

1968 年生まれ。福岡県出身。
音楽プロデューサー/作詞家/作曲家

早稲田大学在学中にR&B/HIPHOPを主な対象として執筆を開始。アメリカやイギリスでの豊富な現地取材をベースとした評論活動、多数のラジオ・TV出演を重ね、若くしてその存在を認められる。久保田利伸との交流をきっかけに90年代半ばから音楽制作に携わり、SPEED、MISIA、宇多田ヒカルのデビューにブレーンとして参加。その後プロデュースした平井堅、CHEMISTRYにミリオンセラーをもたらして彼らをスターダムに押し上げた。また東方神起、Kといった韓国人アーティストの日本デビューに関わり、K-POP市場拡大の原動力となる。

その他、プロデューサー、ソングライターとしてEXILE、JUJU、由紀さおり、三代目J Soul Brothersなど数多くのアーティストの楽曲制作に携わる。シングルおよび収録アルバムの累計セールス枚数は3000万枚を超す。
2008年、EXILE「Ti Amo」(作詞・作曲・プロデュース)で第50回日本レコード大賞「大賞」を、2011年、JUJU「この夜を止めてよ」(作詞・プロデュース)で第53回日本レコード大賞「優秀作品賞」を受賞。
NHK-FM の人気番組『松尾潔のメロウな夜』は放送5年目をかぞえる。

近著に『松尾潔のメロウな日々』(スペースシャワーブックス)。