【インタビュー】T-SQUARE 育ての親 青木幹夫氏スペシャルインタビュー!『T-SQUARE 45TH Anniversary Celebration Concert』moraダウンロード 独占先行配信リリース記念!

昨年、レコードデビュー45周年を飾る通算50枚目のオリジナル・アルバム『VENTO DE FELICIDADE~しあわせの風~』をリリースし、東京国際フォーラムホールA
にてセレブレイション・コンサートを行なったT-SQUARE。そのデビュー45周年記念公演の模様を完全収録したライブ音源『T-SQUARE 45TH Anniversary Celebration Concert』がDVDとBlu-rayの発売に先駆けて、3月25日にmoraよりダウンロード配信が開始される。

今回のインタビューは株式会社ティースクエア・ミュージックエンタテインメントの代表、青木幹夫氏。デビュー前から現在までのザ・スクエアを最も間近で見てきた彼ならではのエピソードや、4月24日に発売されるライヴDVDとBlu-rayの詳細と、一足先に始まる音源先行配信について、そしてバンドへの愛を語っていただいた。

interview & text:近藤正義

独占先行期間:2024/3/25(月)~

  • T-SQUARE 45th Anniversary Celebration Concert

    T-SQUARE 45th Anniversary Celebration Concert

    T-SQUARE


 

―今回の映像作品『T-SQUARE 45TH Anniversary Celebration Concert』の発売に先立って、音源の先行配信が始まります。これは従来のCD時代のライヴ・アルバムが配信に替わった、新しい形態と言えそうです。アナログLPやCDによる音だけだった時代と、Blu-rayという映像が主流となった現代とでは、ライヴ作品の性質も変わってきましたね。

音だけの時代、ライヴ・アルバムというものは制作サイドからすれば安く作れるという利点もありましたが、オリジナル・アルバムほどは売れないというのが一般的な認識でした。しかしスタジオ・テイクとは一味違った迫力あるライヴ・アルバムには一定数の需要があったことも事実です。ただ、LPはもちろん、映像になってからのVHSでも収録時間に制限がありましたから、コンサートの全部を紹介することは困難であるため収録曲を絞ったり曲順を変えたり、こちら側で作り込む必要もありました。ところがDVDやBlu-rayになって、コンサートの完全収録というのが当たり前になってきました。その場でご覧になっていた方も大勢いらっしゃるわけですから、やはりメモリアルとしてそのままの完全収録が望まれるようになったのでしょう。だから、映像作品は完全な形で出来るだけ多く残したいと思っています。逆に、CDのライヴ・アルバムというフィジカルの需要は下がってきました。でも音源だけで聴くという楽しみ方も根強く残っています。そういった需要に対しては今回のように先行配信という形で補っていきたいと思っています。ミックスも配信のために特別に行いましたから、DVDやBlu-rayがリリースされる前に、まず音源の配信を楽しんでいただければと思います。

 

―やはり、スタジオ・アルバムとは違うアレンジだったりフレーズだったり、あるいはスペシャルなメンバーだったり、ライヴならではの曲の変化や会場全体の熱気もライヴ作品の魅力ですよね。

やはりライヴ・バンドとしての実力が出ますからね。インプロヴィゼーションによるフレーズの違いもありますし、同じ曲でもやるたびに変化があってどんどん面白くなっていきます。また、周年ならではのドラム多重奏「オレカマ」やビッグバンド、さらに足立区立西新井中学校吹奏楽部など通常のスクエアのコンテンツにない出し物も含まれていますので、ぜひ楽しんでください。本編のDISC1、2はもちろん、過去のレア映像やバックステージでのインタビューを収録したDISC3も見モノですよ。

 

―今回の45周年の構想はどのようにして生まれたのでしょうか。

さて何をやろうかな、というところから始まるわけですが…。こういう周年モノは随分やってきましたから、アイデアはだいたい全部出し切ってるんです。そうすると、旧メンバーを集めて同窓会みたいなお祭りにするしかない。お客さんもそれを期待していますからね。そうは言っても、僕の視点で外部のメンバーを集めたところもかなり大きいです。選曲や曲順はいつものように坂東に任せて、誰を出すのかという点では僕が口を挟んでいます。それは本田雅人のB.B.Station、鳥山雄司さん、それから渡辺香津美さん。

―旧メンバーを集めるのも、皆さんのスケジュールを押さえるのが大変ですよね。

ツアーの日程を決めて会場を押さえるのは1年以上前からじゃないと間に合わない。そうすると、ミュージシャンを押さえるのも1年前からということになる。今回、則竹が参加できなかったのは、1年先まで彼のスケジュールが埋まっていたからなんです。

 

―昨年の本田さんのカムバックは、周到な演出かと思えるほど見せ方として劇的でした。多くのファンが望んでいながら実現していなかった事柄でしたからね。

本田くんがメンバーだった当時、バンド内での考え方の違いを僕はレコーディングの現場で感じていました。それはアーティストとしての音楽的価値観や考え方の違いから来るモノで、そういう確執はツアーの時ではなくてアルバムの制作時に現れるものなんです。2週間ほどの集中した制作現場で、それぞれの自我がぶつかり合う時にね。当時このメンバーで続けていくのはそろそろ限界にきてるな…と感じてました。後にそれが本田くんの退団につながるんですけどね。そんなことがあったので、僕としては安藤がリーダーの時に本田くんを呼ぶことは難しかったんです。このバンドのマネジメントを円滑に進めていく為の僕の判断。ファンの想いが別にある事もわかっていますが、この感覚が理解できないとマネジメントは出来ません。

 

―本田さんだけがこれまでの周年コンサートに出演していませんでしたから、何か確執があるのではないかとファンは勝手に推測していましたけどね。

結果的に、安藤が辞めた途端に本田くんに声をかけた事になってしまったけど、僕は皆と繋がっていますから、思い立って、彼の携帯に電話したんです、それも真夜中でした。びっくりしてたけど、本田くんも直ぐ一緒にやりたいと言ってくれました。既に安藤も本田くんのバースデーライヴのゲストに出て、交流はあったみたいだし、結局、この辺のことは最終的に僕が決めなきゃならないことだから。今となっては、とても良い形で現旧メンバーが一つにまとまってくれたと思いますね。この45周年記念公演でそれを示せたと思っています。

 

―本田さんはB.B.Stationも動員しての大活躍ですね。

本田くんとはT-SQUAREを辞めてからもヴィレッジでアルバム制作した仲だし、ここは一つ彼の見せ場を作ってもいいかな、と…。

 

―鳥山さんは去年のアルバムから引き続きの登場ですが、昔から接点はあったのでしょうか。

和泉くんの未発表曲をブラッシュアップしてもらった流れで、今回来てもらいました。昔、同じ事務所だった久保田早紀さんのバックバンドのバンマスを久米大作に頼んだことがあって、その前任のバンマスが鳥山くんだった。ステージ・アレンジやミュージシャンのピックアップもやってたし、ソニーミュージック時代の松田聖子のアルバム・アレンジの仕事などから、ギタリストとして以上に、センスの良いアレンジャー、プロデューサーと言う印象が強かった。でも、鳥山くんがソニーからアルバムを出してた頃、本田くんが鳥山くんのバンドにいたんだってね。スクエアに入る前の田中豊雪や清水永二も鳥山くんのバンドにいたし…。和泉くんや神保くんとのPYRAMIDのことを知ったのはもっと後のこと。

 

―渡辺香津美さんも前作まで2作連続ゲスト参加ですね。

香津美さんにはあの人ならではの音がありますから、今後もお付き合いを続けていただけたら有り難いなと思っています。ギタリストが固定されていない今なら、T-SQUAREのサウンドにいろんなバリエーションを作れますからね。それに、僕が香津美さんを繋げたのには理由があるんです。

 

―まだアマチュア時代のスクエアのお話ですね。改めて香津美さんとスクエアの関係を聞かせていただけませんか

スクエアは昨年がレコードデビュー45周年でしたが、アマチュア時代に遡ればさらに2年前からあったんです。当時、高田馬場のビッグボックスの9階にビクターミュージックプラザというオーディオのショールームがありました。まだ学生だった僕は先輩が日本ビクターの広報室にいた関係でアルバイトしていて、そこで先輩から「毎月第3日曜日の夕方2時間、ここでステージをブッキングしないか?」と言われたんです。その頃、僕は恵比寿のヤマハでジャズ・ギタリスト高柳昌行さんのレッスンを受けてて、上のクラスに香津美さんがいたんです。彼の存在を知ったのはその時でした。そこのクラスメートから「上手いギタリストがいる」と噂されてたのが安藤正容です。安藤は高柳昌行さんのご自宅でレッスンを受けてたんです。僕と同じ明治大学の同級生だとわかって、早速捜して、安藤と会って話して、「こういうイベントやらない?」ってスタートしたのがスクエアだったんです。

 

―そこに香津美さんが絡むことになるのですね。

話が長くなるのですが、そのイベントのために安藤正容(g)、中村裕二(b)、袴塚淳(p)、原田俊一(ds)の4人でスタートしたのが最初のスクエアで、その年の7月にドラムがマイケル河合に変わっています。それでこのイベントをもっと盛り上げようということで、高柳先生の上のクラスにいた気安さも手伝って、香津美さんに連絡してゲスト出演してもらったことがあったんです。たまたまそのタイミングに、当時は日本フォノグラム/イーストウィンドのレーベルプロデューサーだった伊藤八十八さんが見に来てて、「よし、このバンドのアルバムを作ろう」と言ってくださったんだけど、レコード会社間の事情があって流れてしまった。

 

―その辺りの経緯はあまり知られていないかもしれませんね。ファンの皆さんの中には、このところT-SQUAREのアルバムに香津美さんが参加していて「これは凄いや!」と思いながらも、「でも、どうして香津美さんなんだろう?」と不思議に思った人は多いと思いますよ。

じつはそんな経緯があったので僕が香津美さんを繋げたんだけど、本人である香津美さんもあの当時のことはあまり覚えてないんじゃないかな。もう50年近く昔のことだからね。

 

―その後、デビューが決まるまではどんな道のりだったのですか?

結局その年はデビューが決まらないまま12月を迎えて、ショールームでの1年間のマンスリーライブも最終回。そこに伊東たけしと本多俊之をゲストに呼んだんです。この時点で安藤、伊東、中村、マイケルというデビュー・アルバムの中心的なメンバーが揃った。でも年が明けてもデビューするチャンスはなくて、春に僕はビクターに就職。安藤は普通に就職活動を始めて内定をもらい、翌春になれば故郷の名古屋に帰ることになった。だから学期末いっぱいでアパートを解約したと言ってきた。それを聞いた僕は「そりゃダメだ!」って彼を押し留めて3ヶ月くらい僕のところに居候させてました。それで、フォノグラムからCBSソニーへ移っていた八十八さんにもう一度電話してみたら、笠井紀美子のレコーディングでロスに出張中。帰国するタイミングでまた電話して「スクエアの件ですけど、まだお気持ち変わってないですかね?」と聞いたら「すぐにやろうよ!」と言っていただけた。これが運命の電話になったんです。

 

―そうやってデビューまでの道筋をつけたのですが、青木さん自身はしばらくはスクエアとは別の道を歩むことになるんですよね。

僕はビクターに入社して1年が経ち、そこで福岡への転勤の話がでたんです。演歌や歌謡曲ばかり扱っていたし、会社もつまらない事ばかりで楽しくなかったし、福岡へ行くと最低でも5年は帰ってこれないだろうと思ったので、その時点で辞めちゃいました。音楽業界のことは多少分かって来ていましたし、制作をやりたいという夢はまだ持っていたのですが、仕方なしにブラブラしていたんです。そしたら八十八さんから「青木くん、キミ、スクエアやらないか?」と連絡が入り、80年の7月に再びスクエアに合流しました。

 

―当時はスクエアにとって、どんな時期だったのですか?

デビュー時に所属していた事務所が潰れた直後です。ちょうどその時、マイケルが僕より先にソニーへの就職が内定していて、それもあってスクエアは半年間にアルバムを3枚リリースしていました。八十八さんはマイケルのドラムを気に入っていたので、彼が入社する前に1枚でも多く作っておきたかったんでしょうね。僕が再び関わったのは4枚目『ロックーン』のリリース後から。企画段階から関わったのは5枚目の『MAGIC』からです。

 

―メンバーが安定しなかった時期ですね。

結局、青山純は『Rockoon』1枚で抜けて、中村裕ちゃんも辞めて、そこから『MAGIC』までが大変でしたよ。バンドはまだアマチュアのノリでしたからね。そんな時にタモリさんのラジカル・ヒステリー・ツアーのバックバンドをやらせてもらえたのは良かったです。事務所としてはバンドを鍛えつつ、僕もそこでマネージャーとしての勉強をさせてもらえましたからね。この時に北海道から沖縄まで全国のイベンターと名刺交換も済ませていました。だから、スクエアがサントリーのCMで大ブレイクした途端、アルバムで言うと『ADVENTURES』で一気にホールでの全国ツアーを展開することができたんです。

―その後も、何度ものメンバーチェンジを含めてバンドにとっての試練があるわけですが、その試練をことごとく福へと転じてきたという印象なのですが、いかがですか?

そういうことがしょっちゅうあるから、新人ミュージシャンに関しては常日頃からアンテナを張ってる癖がついてました。だいたい、そのタモリさんのツアーの最中にドラムとベースがメンバーチェンジですからね(笑)。そこで田中豊雪(b)と清水永二(ds)が登場しました。ツアーの最中にメンバー・チェンジだなんて、普通は考えられないですよ。それでもタイミング的に切羽詰まっていたし、鳥山くんのバンドの2人を連れてきてそのまま本番にも呼んじゃえ、なんてもう、綱渡りですよ。

 

―一番印象に残っている出来事はなんでしょうか

その後も何度かのメンバー・チェンジがありました。則竹と須藤は新人だったけど飛び抜けて筋が良かったし、本田くんは既に豊富なキャリアを持っていた。宮崎も新人だったけど1年前からバークリーで見て実力は分かっていたので、「何かあったら声かけるから」って、引き出しの一つとして持っていたしね。それでもメンバー・チェンジというものは場当たり的な綱渡りに違いないんだけど、スクエアというバンドがちゃんと存在していればなんとか凌げる。その土台が揺らいだのは、『FRIENDSHIP』のとき。

 

―この時の経緯は長い間、謎に包まれていましたよね。

あの頃、伊東はスクエアから離れて10年くらいいろんな事務所を転々としていて、大変そうだった。それを見かねた安藤が「僕が曲書くから、一枚企画モノ作ったらどうかな?」と言ってきて、「いいよ、やろうよ」ということになった。その時、フレンドシップというタイトルはもう決めていて、バンド名にしちゃおうかと思っていたくらい。それで5月~6月にLAでレコーディングして帰ってきたら、今度は安藤がスクエアから抜けると言い出したものだから、バンド内が荒れちゃってもう大変。則竹も「安藤さんが辞めるのなら、僕も辞めます」なんて言い出すし、もはや解散状態。ファンの間では「事務所が悪いからこんなことになったんだ」という図式になって、僕なんか2ちゃんねるでボロクソに悪口書かれてましたよ。

 

―公式な発表はあっさりした表現だったので、裏で何が起こってるんだかさっぱり分からなかったです。

だから、あの時点で実はスクエアは一旦なくなっていたということ。そしてフレンドシップをスクエアにしたのは、僕の強引な手法。安藤と伊東の二人を事務所に呼んで、「あのさ、この間LAで録ってきたアルバム、スクエアとして出すから!」。二人とも「え~っ!」って驚いてたけど、伊東は驚きながらもニコっとしていたのを見逃さなかった(笑)

 

―そしてしばらく、安藤さんと伊東さんのユニット時代になるわけですね。

スクエアとしてやっていくことに二人は本気になってくれたけど、ツアーのメンバーがいない。則竹は承諾してくれたけど、須藤には「何言ってんですか。突然あんなことになって、昨日の今日でそんなのできるわけないでしょ」って断られた。「そうだよな、ごめんな」なんてやりとりもあったしね(笑)。

 

―その後、須藤さんも和泉さんも戻ってきて、ちょっと同窓会的なバンド形態になりましたね。

『TRUTH』期のメンバーで帰還(期間)限定ってことにしてね。ホントにもう行き当たりばったりですよ。でもアルバムも制作したし、ライヴツアー、韓国公演、25周年イベント、クロスオーバー・ジャパンにも出演した。その後また安藤と伊東のユニットに戻った時に、坂東と出会って河野くんと一緒にメンバーにした。伊東はすごくこの人選に乗り気だったけど、安藤はまだ二人だけのユニットで気楽にやりたかったみたい。その後は14年くらい、安藤、伊東、河野、坂東の四人で落ち着いてた。そしたら今度は河野が身体こわしたり安藤が辞めたりして、坂東と伊東の二人になっちゃって…。メンバー・チェンジに関してはこんなふうに昔から振り回されてきましたからね。だから、もはや何が起こっても驚かないですよ(笑)。

 

―そうやってバンドが長く続いているのは何故でしょう? 

バンドはやってて面白くなかったら続かないじゃないですか。その点、スクエアはお仕事でやってるというモードは、未だに全くないですね。職業団体としてのバンドじゃないんですよ。八十八さんがプロデューサーだった頃はプロデューサーという先生がいる学校みたいな感じで、僕たちは半分遊んでるような気持ちで無責任に関与できたんです。途中からその先生がいなくなっちゃったから、その後はクラブ活動みたいなノリでやってきましたよ(笑)。

 

―それにしても、オリジナル・アルバムが50枚、その他に企画モノやライヴ作品もあり、アナログも出したり、コンテンツの数がとても多いです。旧譜も含めてカタログは常に揃っていますしね。

作ってリリースするのが好きなんですよ。そのためなら、どんな苦労もそれほど苦にならない。自分が面白いと思えるものを作る、これに尽きますね。そのためにはメンバーのケツを叩くマネジメントをしますよ。それで安藤、疲れちゃったのかな?(笑)。でも、安藤が曲を書けなくなっちゃったのは、年間通して次から次へとスケジュールの詰まったバンドがキツくなったからだと思ってるんです。今は僕が、さあレコーディングだ、さあツアーだ、なんて追い込んでもしょうがない。安藤はちょっと落ち込むと「スクエアはギターが僕じゃなくてもいい」なんて、昔から何度も言ってきたんですよ。今回がその3度目の正直(笑)。だから一度、こんなふうにうちの事務所から離れるのもいいのかもしれない。長年付き合ってるから分かるんですよ。いつか安藤がリフレッシュして、いい形でスクエアに戻ってきてくれるといいんですけどね。

―解散しないバンドを支える強力なマネージメントとは? 40周年のインタビューの時には安藤さんが「強力なマネージメントがあればこそ40年続いた」とおっしゃったのが印象的でした。

安藤が辞めた時も、残った二人がやりたいと言ったから続けているのであって、それをバックアップするのが僕の仕事です。僕はアーティストにはなれませんが、彼らを活かせる環境を作れるのなら僕のキャリアや人脈をフルに使って続けていきたい。強力なマネージメントであるかどうか分かりませんが、たまたま長くこのフィールドでなんとかここまでやってこれました。伊東と坂東が続けると言っている間は、 T-SQUAREのブランドは守っていきたいと思っています。

 

―現在のT-SQUAREのメンバー補充は考えていますか?

毎回サポートのメンバーを入れてレコーディングするのはクリエイティヴで面白いんですが、やはりスケジュールを抑えることも含めて大変なんですよ。それに伊東も坂東も、ある程度固定されたメンバーでバンドとして変化していくのが理想の姿じゃないかな、と思っています。そこでオーディションをアナウンスしましたところ130人強のエントリーがあり、現在その中から4人位ピックアップしています。リハーサルで試してそのまま本番のツアーに入れちゃうのも一つのやり方ではあります。ステージでの演奏を見ないと判断がつかないんですよ。トオル(長谷部徹)を入れた時も、スタジオではおとなしかったのに本番で驚くばかりの真価を発揮したのを見て安心できたのを覚えています。だから本番に出演してもサポートのままなのか、メンバーにするのか、それは別の話です。いずれにしても3月中にオーディションの人選は終わらせておきたいです。

 

―それでは最後に、今後のスケジュールを聞かせていただけますか。

昨年やった和泉くん追悼コンサートの延長として、4月のBLUE NOTE TOKYO、5月のZepp Nagoya、6月のなんばhatch、7月にはTOKYO DOME CITY HALLのジャズ・フュージョン・サミットなどが決まっています。オリジナル・アルバムのレコーディングはその後に行なって、来年の春先には出したいですね。そのレコーディングには、今回オーディションした人が入るかもしれない。固定メンバーとサポートをどうするか、まだ結論は出ていません。何せ先のことですからどうなるか分かりません。いつもながら混沌としていますよ(笑)

 


デビュー45周年記念公演のライブ音源を完全収録
『T-SQUARE 45th Anniversary Celebration Concert』3月25日(月)mora独占先行配信!

T-SQUAREのライブ音源『T-SQUARE 45th Anniversary Celebration Concert』が3月25日(月)よりmoraにて独占先行配信されることが決定!AAC、ハイレゾ、DSDの全配信形態がmoraでいち早くお楽しみいただけます。詳細はこちら

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