「匠の記憶」第13回 チープ・トリック ディレクター(日本デビュー時) 野中規雄さん

 当時本国ではほぼ無名の状態ながら、来日公演として行われた武道館ライブの模様を収めた『At Budokan』の逆輸入によって一躍人気バンドの座に上り詰めたチープ・トリック。近年に至るまでなかなか例のないこのスター誕生の裏側には何があったのか? 当時EPICソニーにて日本側の担当ディレクターとして活躍されていた野中規雄さんに、当時の思い出を振り返っていただきました。

  


 

インタビューの様子。(イラスト:牧野良幸)

 

――チープ・トリックを担当するようになった経緯を教えていただけますでしょうか。

野中 クイーン、キッス、エアロスミスって、「ミュージック・ライフ」が言い出した“三大バンド”っていうのをみんなが使うようになって。それがだんだん2年経ち3年経ちってベテランになってくると、次の顔がほしくなる。雑誌では常に新しいバンドを女の子たちに紹介していく必要があるので、その探してる中でチープ・トリックがピックアップされたっていう。でもプロモーションの力というよりは読者の反響が新しいバンドの中では一番大きかったので、東郷かおる子さん(ミュージック・ライフ編集長)が「これでいきましょう!」みたいな感じで。

――時期的には?

野中 (1stアルバム『Cheap Trick』を指して)ここ。このアルバムはすぐに出したことは出したんだけど、あんまりアメリカでも当たってないし、最初は日本でもそんなにいくと思ってなかったの。77年はエアロスミスの来日があって、まだ担当としては(エアロスミスというバンドの存在が)自分の中では大きいわけよ。しかもその時にジューダス・プリーストがCBSに移籍して、『背徳の門』が出る。それとクラッシュがイギリスでデビューしたって情報もあるから、そうするとそれらのバンドの中では(チープ・トリックは)一番下なのよ、自分の中の期待値としては。でも「ミュージック・ライフ」で新人紹介のグラビア載せたらバンと反応があったというのと、一枚目から渋谷陽一さん(ロッキング・オン編集長)がこれはいいっていう風に言ってくれてて。これはもしかしたらいけるんじゃないかって思ってたところに、このアルバム(2ndアルバム『In Color(邦題:蒼ざめたハイウェイ)』)がきたわけですよ。

――なるほど。

野中 77年の9月発売なので、このアルバムを聴いた7月くらいには「これドカーンとくるわ」と。お客さんの受けとアルバムの出来が間違いなく重なるなっていう感触と確信で。だから実のところ言うとチープ・トリックってそれほど大きなことやってないの、担当としては。

――そうなんですか。

野中 身を任せてたから。ユーザーの人に。

――ロビン・ザンダーとトム・ピーターソンっていうあの二人の美形のルックスと楽曲がまずはポイントだったんでしょうか。

野中 新人のアルバム・サンプルの中から好きなの選んでいいよって上司に言われたので、「じゃあこれ、チープ・トリックってのでいきますよ」と。エアロスミスのプロデューサーでもある、ジャック・ダグラスのプロデュースだったし。「こんなのオヤジが二人いて、受けるわけないだろ」とか言われた当初から、そもそもそんなに期待してなかったんですよ。これ(『蒼ざめたハイウェイ』)が出るまではね。ここで初めて「いい男二人とおじさん二人」ってコンセプトがはっきり出たわけだよね(笑)

――キャラ設定みたいなのを意図的にやったりとかはあったんですか、当時。

野中 このチープ・トリックってバンドに関しては全部(メンバーの)リック・ニールセンのプロデュースだから、日本側が何かイメージ作ったとかいうことじゃなくて。変なの二人といい男二人っていうのは、リックが作ったコンセプトなんだよね。ただ特にこのロビンが日本の女の子に受けたんだよ。いい男ってのは世界中にたくさんいるんだけど、ロビンの“いい男度”が刺さった。あの頃の日本の女の子たちの好みにね。

――僕もチープ・トリック大好きだったんですけど、やっぱりそのリックの変態的な感じ、ギターコレクター的な感じとか、そっちがあってこそということも言われてましたよね。

野中 このアルバム(『蒼ざめたハイウェイ』)の音が来たときに、ある意味「ミュージック・ライフ」をとるか「ロッキング・オン」をとるか選択しなきゃいけないわけです。どういうことかっていうと、たとえば日本に取材にきたときに、どこに一番最初に取材してもらうかっていう。海外取材なんかの写真も、どこに最初に持っていくかっていうことがあるので。そういうときにやっぱり「ミュージック・ライフ」にしようって思ったのは……ある意味でその後のバンドにとって正解だったかもしれない。とにかくビジュアルだったんだよ。その頃のロビンのね、俺のつけたキャッチフレーズは……「青いリンゴ」だったの。

――ははははは!(笑) ちなみに僕は関西だったんですけど、やっぱり「今夜は帰さない」っていうのが、とにかくラジオでたくさんかかってたっていう記憶があって。それでけっこう洗脳されたっていうか。

野中 このアルバムの中の2曲だけは絶対にシングル・ヒットさせたいと思ったんだ。アメリカとは全然関係なく日本だけのシングルカットができてた時代だし、アメリカでは人気のないこのバンド、日本は勝手にやってやろうと。まずはこの2曲に邦題を付けたい、しかも若い女の子向けにということで、「甘い罠」「今夜は帰さない」と付けて。

――女子ウケを狙ったタイトルにしようっていう。

野中 そう。エアロスミスの「お説教」と「やりたい気持ち」は2秒くらいでつけたけど(笑)、これはね、たぶん一日二日かかったと思う。特に「今夜は帰さない」は時間かかった。アルバムの中で邦題がついてるのはこの2曲だけだもんね。この2曲だけで決めるっていう意思がばりばり出てるよね。

――では、ちょっと聴いてみましょうか。

 

♪「今夜は帰さない」

アルバム『In Color(蒼ざめたハイウェイ)』収録
(原題:「Clock Strikes Ten」)

 

――ビートルズっぽくてサウンドが今っぽいっていうので持ってかれましたね。やっぱりビートルズって年上の人のものだったんで。

野中 そうだね。もろビートルズのおいしいところもらってるから。だからビートルズをデビューのころから体験してきた人間にとっては、「なんだこれパクリじゃないか」って言う人もいるけど、そうじゃない人たちにとってはまた新しい感じに聴こえたかもしれない。

――この流れで武道館ということになるんですかね。

野中 9月の時点でもうこの『蒼ざめたハイウェイ』がめちゃくちゃ売れちゃってるわけ。その頃に音楽舎ってところからチープ・トリック呼びますと。へえ、どこでですかって聞いたら、「武道館ですよ」と。こちらとしては「武道館? ありえないでしょう」と。5月にデビューして、ヒットアルバムが9月で、翌年の3月に武道館なんて、いくらなんだって無理でしょっていう話をしたんだけど、「いやもう決めたんだからやります」「ミュージック・ライフも人気凄いって言ってます」みたいに返されて。まあ、うちがリスクを負うわけじゃないからいいかなって思ってたら、(音楽評論家の)福田一郎さんが「アメリカの前座バンドを武道館でやるなんて何事か!」みたいに怒ったんですよ。

――(笑)

野中 つまりね、武道館っていうのはビートルズから始まったように、実力もステータスもあるバンドがやる場所なんだと。

――そんな簡単に出るなよと。

野中 そうそう。アメリカで誰かの前座しかやってないようなバンドがちょっと人気が出たからって武道館でやるなんてありえないって。だいたい30分か45分しかやれてないはずだから、そいつらが武道館のステージができるわけがないと。ハコとサイズでもって負けちゃうだろっていう風に福田先生は言ってたんですよね。

――まあわりと正論ですよね。

野中 そう。で、みんな「そう言われてみたらそうかもな……」と思うわけじゃない。ところが、それをクリアしちゃったのは、チープ・トリックっていうバンドとあのファンだよね。まず第一にチープ・トリックが30分45分のバンドじゃなくて、2時間でもできるバンドだったということ。前座をやっていたけれども本来彼らはずっと地元でやっていたから演奏力もあるし、構成もできる想像以上のライブバンドだったということがひとつと、武道館を埋めたお客さんたちが「ギャー!」って言ってくれたおかげで、ステージもレコーディングも派手になった。

――でもその前にもうレコーディングを決められてるわけなんで、それはわかってなかったわけじゃないですか。見切り発車なわけで。

野中 あのね、“LIVE IN JAPAN”って当時の日本のレコード会社はわりとみんな録ってたのよ。ブラジル音楽でもジャズでも日本にきたら“LIVE IN JAPAN”を録るっていうのがあって、もうひとつは洋楽のディレクターっていうのは自分で音が作れないから、音を作りたいんだな。

――企画を。

野中 そうそう。自分の制作でレコードを出すのに一番手っ取り早いのが“LIVE IN JAPAN”。だから来日アーティストが来るときはだいたいオファーしてるわけ。で、その頃の契約っていうのは、今みたいに地球上全部同じ契約書でできてるもんじゃなくて、テリトリーごとに違ってたりしたものだから、日本だけで発売するのはわりとね、楽だったの。本国でレコード会社とアーティストが結んでる契約に触れずに日本だけプラスアルファの契約ができたのね。でもその代わり、「日本だけだからね、他の国に持っていくなよ」って条件がついて。それでエアロスミスは断られたの。

――あ、なるほど。

野中 ジャニス・イアンは録れた。でも売れてないから、無名なレコードだけどさ(笑) 同じようにジューダス・プリーストも録った。どんなアーティストにも当たり前のように“LIVE IN JAPAN”録りたいっていうオファーは出してたの。

――なるほど。じゃあそのときはそんなにヨダレが出てたってわけでもなく……。

野中 いやヨダレは出てたよ(笑)。1978年の4月来日でしょ、10月には新会社・EPICソニーができるから、その第一弾にしてががーん!と広告打とうと。結局「Don’t Look Back」(ボストンの2ndアルバム。EPICソニーの洋楽第一弾アルバムになった)の次になったけど、7万枚だか8万枚だか売れたわけ。なのでもう成果は上がったなと、担当ディレクターとしては、『蒼ざめたハイウェイ』が売れて、来日公演があって、『Heaven Tonight(邦題:天国の罠)』も売れて、『At Budokan』 まで7万か8万売れて御の字、もうこれで特賞(ボーナス)の査定はいいわけよ、すでに(笑) だってアメリカでも売れてないバンドで武道館いっぱいにして、そのライブ盤が10万枚近く売れちゃったわけだから、ああOKOK、俺っていい仕事したなと。そしたらアメリカで『At Budokan』が発売になったの。アメリカの発売まで野中がやったかと言われたら、何も動いてないからね。

――最初は(日本からアメリカへの)輸出盤ってことですよね。

野中 そう。だから謙遜ではなくてチープ・トリックの場合は運のよさがね、どんどんどんどん重なっていったっていう。そういえば、つい数年前にアメリカのエピックの当時のシカゴのプロモーター……そいつがこの日本盤をDJのところに持っていって、「これ面白いぜ」って言った張本人だってのがわかって。

――ああ、歴史の生き証人というか……縁結びをしてくれた人が。

野中 そうそう。もちろん全然知らない人なんだけど、もし会えたら面白いよね。日本の担当者である自分と、アメリカで最初にこのアルバム(日本盤)を認めたその人とが。そうして輸出盤が評判になって、6万枚だか7万枚だか日本から出荷された頃、EPICはラジオOA用に何曲かピックアップしたDJコピーみたいなものを放送局に配布したんだけど、もう間に合わなくなって、遂には「アメリカでも発売することにしたから、アルバムカバーのアートワークを送れ」って連絡が入った。それからすぐにイギリス盤も出る、ドイツでもカナダでも出る、どこで出るで、うわーすごいなこれはって言ってたら、あっという間に200万枚みたいな。

――とんでもないですね……日本で発売してから向こうでチャートアクションが出るまでの期間ってどれくらいなんですか?

野中 えっとね、半年ぐらい。年明けには輸入盤が向こうに届いてるからね。シカゴのDJが「ビートルズみたいだ!」って紹介したのが広がっていったんだけど、実はアメリカのDJもリスナーもビートルズ以降ああいう(観客が)「ギャー!」って歓声を上げる文化を知らないんだよね。ところが日本はずっと伝統としてあったから。クイーンもそうだし、ベイ・シティ・ローラーズもそうだったから、チープ・トリックで「ギャー!」って言うのは当たり前なんだよね。でも、アメリカの人たちはクイーンでもベイ・シティ・ローラーズでもあそこまでじゃなかった。いきなりチープ・トリックのライブ音源の「ギャー!」をラジオで聴いて、「何コレ!?」って。目新しさっていうか、珍しさがあったんだよね。

――曲は何がシングルカットされたんですか?

野中 アメリカも日本の真似で「I Want You to Want Me」(邦題:甘い罠)を。それが初めてのチープ・トリックのシングルヒットになったんだよね。

――武道館はレコーディングのセッティングだとかジャケットだとか、どういう風に関わられたのでしょうか。

野中 鈴木智雄さんっていうエンジニア(当時CBSソニー所属)がチープ・トリックを録ってくれることになって。あの人のところにいたスタッフが実はジャニス・イアンを録ったのと同じスタッフなのよ。だからジャニスを録ったときと同じ機材と同じスタッフで二度目なので、じゃあそういうことでお願いしますって、あとはお任せ。

――録ったのは一日だけですか?

野中 武道館と、あと大阪。大阪での演奏も混ぜてあるんだよね。

――ディープ・パープル(アルバム『Live in Japan』)方式で。

野中 そうそう。

――ジャケットには関わられていたんですか?

野中 ジャケットは……たぶん三浦憲治さんだと思うんだけど。あと長谷部宏さんとうちが頼んだカメラマンの人の写真の中から選んで、ジャケットを起こした。

――日本発売で当然イニシアチブもあるし、アートワークもそのまま向こうに行ったっていうことですよね。

野中 そうそうそう。でも本人たちは後になってどこかで読んだけど、気に入ってないんだって。なんかヤギかロバみたいに見える、とか言って(笑)

 

野中 いまでこそパワーポップだとか言われてるけどさ、あの頃はイメージとしてはやっぱりアイドルバンドだよね。捉えられ方としては。だから男の子のファンは少なかった。98%ぐらい女の子だったんじゃない? 隠れチープ・トリックファンって男の子はいたけど……表に出てこれないのよ、恥ずかしくて。

――(笑) 自分はすごい好きでしたけど、確かにライブに行こうとかいう風にはならなかったかもですね。やっぱり『Dream Police』が出て、あまりにソフトになってたんで超がっかりしたっていう……。

野中 そうだよね。あのね、これも何回かいろんなところで言ってるんだけど、このアルバム(『At Budokan』)が出たことによる悪い影響ってのがこういうところに出てくるわけだよ。で、具体的に何かっていうとこれ(『Dream Police』)だってプラチナ・ディスク獲ってるんだよ。

――はい。

野中 売れてるのにみんな『At Budokan』しか言わないわけ。アメリカのマスコミの人もファンの人も……だから「『At Budokan』のチープ・トリック」っていうことをずっと言われちゃって。結果90年くらいからダメになっちゃったね。その段階で終わったと思ったもん、俺も。「あ、消えたな」と。「チープ・トリックってバンドが昔いたよね」みたいな。ところがそれが盛り返してきてるってのが最近なんだよね。

――ついにロックの殿堂入りしましたよね。

野中 今年にね。ロックの殿堂入りってのはさ、すごいんだけど、(チープ・トリックには)似合わないよね。しかも一緒に殿堂入りするのがシカゴとディープ・パープルで。そこにチープ・トリックって……チープ・トリックはノミネート自体初めてされたのよ。5回も6回もノミネートされて取れないのもいる中でね。その人たちに比べると、ノミネートされてすぐ決定!みたいなさ。

――でもミュージシャンへの影響力ってのはすごくありますよね。パワーポップのシーンやら、スマパン(The Smashing Pumpkins)だなんだって。

野中 ミュージシャンに好かれる、いわゆるミュージシャンズ・ミュージシャン。特にリックがそうみたいだよね。自分のところのレーベルからか、インディーズだったと思うんだけど、『ロックフォード』ってバンドの出身地をタイトルにした原点帰りのアルバムを出して、そのアルバムの次に35周年の来日公演をやるの。2008年。その年かその翌年くらい、『ザ・レイテスト』ってアルバムを出すわけ。この『ロックフォード』と『ザ・レイテスト』って2枚のアルバムが、出来がすごくいいのよ。だから結局チープ・トリックってね、曲がいいっていうのはやっぱり一番強くて。しかもそれを表現するロビン・ザンダーっていう歌手はとんでもない歌手だと思う。いまにして思うに。曲によって歌い方が変わる。最初のうちは俺も女の子にウケるアイドルでいいやとか思ってたんだけど、実はこのリックが仕掛けてるバンドのコンセプトとか楽曲っていうのを、特に最近のアルバムを聴くと、すごくクオリティが高いのよ。『ザ・レイテスト』ってのはね、捨て曲なしでほんとにいいですよ。それがもう7年前のアルバムかな。で、今年4月にチープトリックの新譜がユニバーサルから出るんだけど、ビッグ・マシーンっていうテイラー・スウィフトやエアロスミスのスティーヴン・タイラーが契約してるレーベルで。これもいいよ。

 

――『At Budokan』で一曲選ぶとしたら何ですか?

野中 やっぱり一曲目の「Hello There」じゃないかな。暗転の瞬間にぞぞぞぞぞってしたんだよなあ、あの時。

 

♪「Hello There」

アルバム『At Budokan』収録

 

野中 音を出す前に「ギャーッ!」ってなって。やったわと。ギャーッと言わせてやったわと。

――(笑)

野中 あれはね、担当者冥利につきるってやつだったと思う。自分の担当してたアーティストが、アメリカで全く売れてないのに日本に来てこのありさま、みたいな(笑)
『At Budokan』が78年じゃない? その後2008年に一回だけ武道館でやりに来てるのよ、30周年ということで。さっき言った『ロックフォード』と『ザ・レイテスト』の間に武道館が入ってるわけ。結局彼らにとっていい意味でも悪い意味でもポイントになってた武道館を、自分たちのふるさとの名前を冠した――ロックフォード――っていうアルバムを作って、もう一回やり直そうみたいな、その流れの中に入れたんだよね。一回だけ。で、実はその年の6月に野中、定年退職なのよ。

――すごいシンクロですね(笑)

野中 しかもね、その日はチープ・トリックが武道館やっていて、もう一個ビルボード東京でジャニス・イアンがやってたのよ。

――ご担当されていた。

野中 そんなことがあって(笑) だから武道館を観た翌日にビルボード東京でジャニス・イアンを見たんだけど。その辺の自分の個人的なことも含めて思い入れがあってさ。

――チープ・トリックのメンバーとは合われたんですか、そのタイミングで。

野中 ええ。チープ・トリックは……たびたび会ってる。

――メンバーの方々はそれぞれどんな方なんですか?

野中 それぞれのってのは上手く言えないけど、ただこのグループのすごいのは、ライブをいまでもやってることだよね。

――現役感がある。

野中 だからさっきの「殿堂入りが似合わない」っていうのは、現役だからなんだよね。あと偉そうにしてないの、4人がライブをやってても。で、いまも100本以上やってるらしいんだよ。毎年。リックなんてもう70歳近いんだよ!?

――バーニー(・カルロス)なんかもっと上ですよね? 確かいまはライブには参加していないとか。

野中 バーニーはああ見えてリックよりは若いんだけどね。仰る通りもうツアーバンドからは外れてて、いまはリックの息子がドラムを叩いてる。しかしそれでも100本はできないよ。もし日本のバンドが結成何十周年とかでツアーやったとしてさ、それでおしまいじゃない。10本15本切って「今年はいい記念の年でした、お疲れ様でした、またいつか会いましょう」じゃない。毎年100本やってんだよ!? だからそれがチープ・トリックの現役感でありすごさであり、ロックの殿堂入りが似合わない最大の理由で、ニューアルバム聴いてもいいじゃんって思わせるってことだと思うよ。だから担当してた当時よりも後になってきてチープ・トリックってすごいんだなって担当者が気がついたっていう(笑) 時間が経つにつれてすごかったんだな、みたいな。世間におけるバンドの評価も、そういう気がするしね。

 

(インタビュー&テキスト:mora readings編集部)

 

 


 

【プロフィール】

野中規雄(のなか・のりお)

1948年生まれ。群馬県出身。72年にCBS・ソニー入社。ザ・クラッシュをはじめ、数々の洋楽アーティストを手がけた。退職後は(株)日本洋楽研究会を設立。日本が培ってきた洋楽を後世に残そうと働きかけている。FM COCOLO 放送のラジオ番組『PIRATES ROCK』の制作も6年目に入っている。

 


 

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