宇多田ヒカルのニューアルバム『初恋』を手掛けたグラミー受賞エンジニア、スティーヴ・フィッツモーリスが語る『初恋』の音作り
宇多田ヒカル、待望のニューアルバム『初恋』のリリースを記念して、宇多田ヒカルの作品を手掛ける二人のエンジニアに、宇多田ヒカルの魅力・音へのこだわりをエンジニアならではの視点で語っていただきました。一人目は今作のエンジニアであり、ペット・ショップ・ボーイズ、フォクシーズ、スティング、サム・スミスなどのヒット作を手掛け、グラミーも受賞しているエンジニア、スティーヴ・フィッツモーリス。もう一人は『Fantôme』より全曲のボーカルレコーディングを担当しているレコーディングエンジニア、小森雅仁。本特集では彼らがこれまでに手掛けた作品も一緒にご紹介、インタビューと合わせて『初恋』をより深い視点で楽しめます。是非合わせてチェックしてみてください。
さらにアルバム発売に合わせて6月26日(火)より、全国のソニーストア店頭で『初恋』全12曲のハイレゾ試聴が開始。スティーヴ・フィッツモーリスがこれまでに手掛けた楽曲の試聴ができる「スティーヴ・フィッツモーリスコーナー」や、宇多田ヒカルについて語るインタビュー映像の一部を特別上映しています。ソニーストアならではの高音質で『初恋』を体験できます。ぜひ足を運んでみてください。(詳細は記事の末尾に記載)
ヒカルはボーカル以外の録音にも必ず立ち会う
歌入れの時しか来ないアーティストとは違うんだ
宇多田ヒカルの7thアルバム『初恋』は、クリス・デイヴ(ドラム)、ルーベン・ジェームス(ピアノ)、ジョディ・ミリナー(ベース)、ベン・パーカー(ギター)など手練れのミュージシャンたちが彼女のバックを務め、RAKやエアーといったロンドンの一流スタジオでレコーディングされた。そして彼らのサウンドを録音&ミックス・ダウンでまとめ上げたのが、アイルランド出身の気鋭エンジニア、スティーヴ・フィッツモーリスだ。1980年代にレコーディング業界に入り、ペットショップ・ボーイズ、U2、デペッシュ・モード、近年ではサム・スミスの大ヒット曲「ステイ・ウィズ・ミー ~そばにいてほしい」や最新作『スリル・オブ・イット・オール』も手掛けている。宇多田の卓越したソングライティングはいわずもがな、生演奏とプログラミングによる上質なサウンドも堪能できる『初恋』、そのレコーディングをフィッツモーリスに回想してもらう。
文:篠崎賢太郎(サウンド&レコーディング・マガジン編集長) 通訳:川原真理子
僕はザラザラした音があまり好きじゃない
そこはヒカルとも意見が一致している
――宇多田さんのアルバムを手掛けるのは、前作『Fantôme』に続いて2作目ですね。
彼女が僕を選んでくれた理由は分からないんだけど、一つ言えることは、僕のサウンドは温かみがあり、音に厚みがあってクリアに聴こえる。そして、僕はあまりブライトな音は好きではなくて、音量を上げ過ぎずにむしろ下げたい。上げ過ぎるとザラザラした音になってしまうからだ。怒鳴りつけるようなボーカル・サウンドはヒカルも好まないから、そこは僕らの意見が一致しているね。もしかしたら、そういう僕の音作りを彼女は気に入っているのかもしれない。
――『初恋』に収録される楽曲を最初に聴いたとき、率直にどのように感じましたか?
前作よりも今回の方が音楽性が幅広いと思ったね。実は、今回は3曲作ったら4~5カ月何もしない期間があって、またもう3曲作って……というペースで作業していたので、短期間で一気に完成させたわけではないんだ。1年前に作った曲もあるしね。アルバムに収録されていない曲も僕は幾つか手掛けているんだ。
――数カ月おきのレコーディング・セッションで録った曲は、その都度ミックス・ダウンまで仕上げていたのですか?
大半はそうだが、すぐにミックスしなかった曲もある。アルバムのほとんどは僕がバンドのバッキングをレコーディングして、彼女がボーカルを入れて、最後に僕がミックスするのが基本なんだけど、曲によっては歌詞が完成していなかったり、彼女が風邪をひいてボーカル入れができないこともあったから、当然その都度仕上げるのは不可能だった。そういった曲はボーカルレスの状態にしておいて、3~4カ月後、再びレコーディング・セッションで集まったときに歌を入れた。でも大半の曲は録音からミックスまで一気に行なうことができたよ。
RAKスタジオのコンソール前に陣取り、レコーディングを行うフィッツモーリス
――レコーディングの大まかな流れを教えてください。
大半の曲はヒカルが作ってきたベーシックなデモ曲から始まるんだ。そこには彼女のガイド・ボーカルも入っている。その中から彼女が好きな1~2つの要素を抜き出してバンド・メンバーたちに聴かせ、彼らはその曲のコード進行を確認しておく。そして朝、ヒカルが来る前にバンドがスタジオに集まって、曲をプレイしてみるんだ。基本的にドラム、ベース、ピアノのメンバーがデモのガイド・ボーカルに合わせて一緒に演奏する。そこにギターが入ることもあるし、入らないこともあったね。その後、ヒカルがスタジオにやって来て、バンドのプレイを聴いてから幾つか提案する……「これはいいね」とか「ドラムはもっとこうしてほしい」とかね。そしてみんなでもう3~4回プレイしてみて、大抵はこれでバンドのレコーディングはおしまいだ。その後、クリス(デイヴ)が「パーカッションを入れたい」と言えばそれを加えるし、生ギターを入れたかったらベン(パーカー)がオーバーダブを行なう。そうこうしながら、大抵は18時か19時にはバッキング・トラックがほぼ完成するんだ。
――その後、宇多田さんのボーカル入れが始まるのですか?
いや、いったん僕のスタジオ=ピアース・ルームに録音データを持ち帰る。そこでエンジニアのダレン(ヒーリス)と一緒に、ドラム・パートにループやサンプルを組み込んだりするんだ。もっとスペシャルなドラム・サウンドにしたいと思うことがあるからね。そして後日、ストリングスを録音して、最後にヒカルがボーカルを入れるんだよ。これが通常のプロセスだ。スケジュールの関係で、ストリングスの前にボーカルを入れることもあったけどね。
――宇多田さんは自分のボーカル録音が無い日も、バンドの演奏に対してスタジオで指示を出すわけですね。
そうだよ。大抵ヒカルはランチ・タイムからはずっとスタジオにいるよ。レコーディングでは彼女は必ずいる。彼女のいないところでレコーディングが行なわれることは無いんだ。彼女は、自分が求めているものがちゃんと分かっているから、いろいろとバンドに意見する。良いことだよ。僕はそこが気に入っている。僕が手掛けるポップ・アーティストの多くは、自分のボーカル録りのときだけスタジオに来て、それ以外は来ないからね(笑)。
「初恋」にティンパニーを入れたのは
サム・スミスとの仕事が関係している
――先ほど話に出た宇多田さんのデモは、どのくらいの完成度なのでしょうか?
曲によるね。「Play A Love Song」や「Too Proud featuring Jevon」はデモ段階のサウンドの多くが最後まで使われている。「初恋」のストリングス・アレンジも、ほぼ彼女のデモ通りだしね。
――デモではドラム・パートも宇多田さんがプログラミングしてくるのですか?
それも曲によるね。例えば、「初恋」はデモにドラムが入っていなかった。レコーディングでは生ドラムを入れるようチャレンジしてみたけどうまく行かなかったから、結局デモと同じようにドラムは無しにしたんだ。それから「夕凪」もデモにドラムが入っていなかった。ドラムをどう入れるべきか、デモ段階のヒカルにはまだ分かっていなかったんだろうな。でも、この曲は最終的にドラムを入れた。というわけで、曲によって実にまちまちなんだ。かなりはっきりとしたアイディアがある曲はデモのサウンドをそのまま残すことが多いし、ザックリしたアイディアしかない曲はスタジオにいるバンド・メンバーと一緒に変化させていく。みんなで話し合いながらいろいろと試してみるんだよ。
「Play A Love Song」のPro Tools画面。上から2番目の青い波形がボーカル・トラックで、細かくボリューム・オートメーションが書き込まれ、フィッツモーリスがボーカル・トリートメントを丁寧に行った跡がうかがえる
――レコーディングはハイレゾで行ったのですか?
そう、24ビット/96kHzで録音した。
――ヒカルのボーカル録りに関しては、あなたではなく、エンジニアの小森雅仁氏が担当したそうですね。
そう、前作も同様で、それが彼女のやり方なんだ。彼女はキャリアを始めたときからずっと同じボーカル・プロデューサーと一緒にやってきたし、日本人同士のチームで作業した方がコミュニケーションが取れていいと思う。もちろん歌録りの機材に関しても、彼女はTELEFUNKEN Ela M 251マイクとNEVEのマイクプリを使っているから、録音されたサウンドもすごくいい。僕はそのボーカル・データをもらって、ミックス作業を行なったというわけだ。
――日本語の歌詞の内容について、宇多田さんからスタッフに説明はあるのでしょうか?
ああ。レコーディングのときに彼女が歌詞で何を伝えようとしているか説明してくれるから、それが僕としても役に立つ。温かみのある内容だったら、ザラザラしたアグレッシブな音にはできないからね(笑)。
――「初恋」では流麗なストリングス・サウンドが聴けますが、どのような編成で録音したのですか?
ストリングスに関しては、ほとんどの曲で21~23人編成だった。第1バイオリンが8人、第2バイオリンが8人、ビオラが4人、チェロが3~4人、そしてコントラバスが1人だったと記憶している。
――同じく「初恋」に入っているティンパニーは、宇多田さんが自分の作品で初めて取り入れた楽器だそうです。録音時の苦労は何かありましたか?
超楽勝だったよ(笑)。さっきも言ったように、「初恋」は生ドラムを入れようと試みたけどうまく行かなかった。そんなときに、ティンパニーを入れるアイディアが出てきたんだ。ストリングス・アレンジはサイモン・ヘイルが手掛けたんだけど、僕は彼と20年来の付き合いでね、彼はサム・スミスのアルバムでストリングス・アレンジも担当しているんだ。で、ヒカルとのレコーディングの1週間前にサム・スミスのライブ用のストリングス・パートを彼と一緒に録音したんだが、そこにティンパニーが入っていて、僕も久々にティンパニーをレコーディングした。実際に録ってみて、あんなに素晴らしい音だということを忘れていたよ。そんな流れで、「初恋」のレコーディングでもティンパニーを試してみようということになった。ヒカル自身もティンパニーをレコーディングで使ったことが無いと言っていたけど、とりあえずやってみたら非常にマッチした。それほど目立ってないかもしれないけど、ティンパニーが良い雰囲気を添えてくれたと思う。
フィッツモーリスのプライベート・スタジオ=ピアース・ルーム。今やDAWソフトであるPro Toolsだけでミックス・ダウンを行うエンジニアも少なくないが、大型アナログ・コンソールのNEVE VR72も併用するのが彼のこだわり
ヒカルは自分の意見をしっかり持つアーティストだ
僕はそこが気に入っているんだよ
――ミックスの際、宇多田さんからはどんなリクエストが来たのでしょうか?
そんなに無かったね。録音のときから僕も一緒にいるわけだから、彼女がどういったサウンドにしたいのか僕にはちゃんと分かっていた。ミックスでその可能性を最大限に引き出せばいいんだよ。ただ、たまに彼女の方から専門的なことを言ってくることもあった。「このボーカルはもうちょっとドライにしたいから、リバーブをあまりかけないで」とか、逆に「かなりアンビエントな感じにして」とかね。僕もヒカルのイメージに限りなく近いサウンドに仕上げるようにしているので、彼女も満足してくれているようだ。
――宇多田さんとの今回の作業で、印象的な場面があったら教えてください。
どの瞬間も印象的だった。素晴らしい経験だったよ。僕はこれまで大勢の人の作品を手掛けてきたけど、中でも彼女は最も断固とした態度の持ち主の一人だ。僕は、意見をしっかり持つアーティストと仕事をするのが好きなんだよ。たまに意見が衝突することもあるけど、そのときは話し合えばいい。一番困るのは、どうしたいのか分かっていない人だ。山のようなアイディアを試すことはできるけど、最終的には方向性を決めて、そっちに向かって進んでいかないといけないんだからね。その点、彼女は好き嫌いがはっきりしている。僕はそこが気に入っているんだ。
――最後に、宇多田さんに何かメッセージをいただけますか?
(笑)。彼女とはよく話をしているから、メッセージを送るくらいだったら彼女に直接言うよ。SNSのリストに僕を加えるよう、ヒカルに言っておいてくれ(笑)。
スティーヴ・フィッツモーリス(Steve Fitzmaurice): ペット・ショップ・ボーイズ、U2、スティングなどのトップアーティストのエンジニアリングを手掛け、サム・スミスのデビュー・アルバムではグラミー賞を受賞。宇多田ヒカル前作アルバム「Fantôme」からミックスを担当。
スティーヴ・フィッツモーリス参加作品
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宇多田ヒカル
「初恋」
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宇多田ヒカル
「Fantôme」
「花束を君に」「真夏の通り雨」他
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Seal
「Kiss From A Rose 」
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Sam Smith
「The Thrill Of It All」
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U2
「All That You Can’t Leave Behind」
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Craig David
「Born To Do It」
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Craig David
「Slicker Than Your Average」
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Foxes
「Foxes」
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Olly Murs
「Please Don’t Let Me Go」
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Olly Murs
「Olly Murs」
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Pet Shop Boys
「Behaviour: Further Listening 1990-1991」
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Sting
「25 Years」
「バーボン・ストリートの月」他
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Various
「We Love Disney Collector’s Edition」
「The Monkey Song」など
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Sting
「The Best Of 25 Years」
レコーディングエンジニアが語る宇多田ヒカルの歌声、その魅力
続いてお話をうかがったのは、2016年リリースのアルバム『Fantôme』より全曲のボーカルレコーディングを担当しているレコーディングエンジニア、小森雅仁さん。宇多田ヒカルから、その繊細かつグルーヴィーな歌声の録音を託された“職人”に、彼女の声の魅力と、『初恋』収録時のエピソード、その聴きどころについて語ってもらった。
宇多田ヒカルだけの“エアリー”な歌声をハイレゾで堪能してほしい
――宇多田ヒカルさんとのコラボレーションは、『Fantôme』に続き、アルバムとしては『初恋』が2作目になりますが、小森さんが担当されているレコーディングエンジニアというお仕事を、簡単にご紹介いただけますか?
音楽制作における録音作業(レコーディング)、音響調整全般(ミキシング)を担当するエンジニアのことです。僕の場合、基本的には両方を担当する事が多いですが、プロジェクトによってはどちらか片方だけを担当することもあり、ヒカルさんのセッションでは主にボーカルレコーディングを担当しています。
――今回のようにボーカルレコーディングだけに特化する方がイレギュラーなんですね。
はい。楽器はスティーブンが録り、僕が録ったボーカルの音源をスティーブンに渡してミックスしてもらっています。ヒカルさんの歌は日本語なので、ニュアンスをより汲み取って録るには、日本人エンジニアが向いていると判断されているのかも知れません。
――宇多田さんの歌声は非常に魅力的ですが、エンジニアから見て声質にはどんな特徴がありますか?
声の周波数帯がすごく広いのが最大の特徴ですね。低いところから上のほうの倍音まで、まんべんなく分布しているイメージです。人によっては中域だけ豊かだったり、女性だと中高域でキーンと聴こえる部分だけ突出している方もいらっしゃるんですが、ヒカルさんはワイドレンジ。そういうボーカルは、音源になったとき音像が大きく聴こえるんです。口径の大きなスピーカーで聴いているような、声が前に出てくる感覚があります。そこに、ヒカルさんの繊細なボーカルテクニックとスキルがプラスされ、より魅力的に聴こえるのだと思います。
――宇多田さんは、歌声そのものがグルーヴィーだと言われますね。
そうですね。例えばビブラートひとつとっても、1曲の中のどの部分でどうビブラートを効かせるか、幅の大きさやスピードまで、ものすごく考えて歌われています。それから音をのばす長さや切り方、ブレスのタイミングや表情……短く息を吸うのか、長く吸うのかなどが、グルーヴ感の一番のポイントではないかと。声質も10kHz~12kHzより上のさらさらした空気感……僕らはエアリーな部分と呼んでいますが、そのあたりの倍音が他の方よりも豊かなんです。
――歌声をより魅力的に録るためのマイク選びのポイントは?
それは楽器の構成や音色次第ですね。ドラムやエレキギター、ブラスにストリングスも入り、と強い音が多いトラックには、やわらかい声を録ってしまうと歌詞が浮き出てこなくなる。逆にやわらかい音のトラックに、すごく抜けのいい明るい声は、硬く聴こえてしまいます。基本的には録音前のデモ音源も聴き、楽器のレコーディングにも立ち会って、合うマイクを考えます。使うマイクが決まっている方だと、「こういうのも使わせてみてください」と試させてもらったりします。
――宇多田さんの場合はいかがですか?
ヒカルさんはご自身のボーカルマイク(TELEFUNKEN製『ELA M 251E』)を使っていらっしゃいますね。中高域がやわらかい音質で、太くて存在感あるどっしりとした音を録るのに向いているマイクです。僕も何度か、レコーディングの最初のテイクで、試してみたいマイクといつものマイクを2本立てて、同時に歌を録って聴き比べたりしますが、TELEFUNKENに勝てたことがありません(苦笑)。ただ『初恋』では1曲だけ、「夕凪」で僕の所有するマイク(Chandler Limited製『REDD MICROPHONE』)が採用されました。
――その理由はなんだったのでしょうか?
曲調にマイクの特性がすごく合ったんです。「夕凪」は、メロディーのレンジが低い曲。「REDD MICROPHONE」は比較的新しい製品で、立ち上がりの速いモダンな音が特徴なので、低いレンジの歌声を感度良く捉えて、ざらっとした質感を出してくれます。そこが曲にすごくフィットしました。
――そんなところにも着目すると、さらに『初恋』を聴く楽しみが増えますね。特に、ハイレゾ音源では、そうした微妙なこだわりを満喫できそうです。
はい、僕もそう思います。声に関していえば、「残り香」という曲。シンプルなトラックに乗せたヒカルさんの声の倍音が、とりわけシルキーでやわらかく、気持ちがいい音になっています。そういう心地よさはCDでも十分再現されていますが、より音の解像度が高いハイレゾ音源だと、一層気持ちいいですよね。
――小森さんご自身は、ハイレゾの魅力はどこだと感じていますか?
僕が最もハイレゾの旨みだと思うのは、小さい音や音の減衰が美しく聴こえることですね。『初恋』は生楽器をふんだんに使った、無駄な音を削ぎ落としたシンプルなアレンジが多いので、ハイレゾだと録音した“部屋の鳴り”の違いもしっかり表現されます。ドラムの音ひとつ取っても、「あなた」はオープンな音像で、部屋の鳴りがしっかり感じられますし、同じスタジオで録った「嫉妬されるべき人生」は、もっと密閉感のある“近い”音像になっています。ハイレゾで聴き比べてもらったら、すごく面白いと思いますね。
――ちなみにハイレゾ用とCD用の音源で、エンジニアの作業的な違いはあるんですか?
僕の場合は、録る段階では楽曲へのフィット感を最も重視するので、考え方は同じです。ただマスタリング・エンジニアごとに違いはあるかも知れません。ヒカルさんのアルバムも『Fantôme』はトム・コインというアメリカのエンジニアが担当したんですが、音圧の処理が明らかに違いました。『初恋』はボブ・ラディックがマスタリングしていますが、『Fantôme』ほどあからさまな差はないにしろ、やはりヘッドルームに余裕があります。音のアタック感など、いわゆるトランジェントがキレイに聴こえる余裕がある音作りになっている印象ですね。そういう違いも、CDとハイレゾを聴き比べてもらうと分かると思いますよ。
ハイレゾなら『初恋』を聴く喜びがよりいっそう大きくなる
――先ほどハイレゾ音源だと、より聴く楽しみが増えるというお話がありました。小森さんが、ハイレゾでぜひ注目して欲しいポイントを、いくつか挙げていただけますか?
やはりボーカルの細かいニュアンスは、ぜひ感じていただきたいですね。とくにハイレゾだからこそ細かく聴き分けられるコーラス。例えば「誓い」には、印象的なコーラスが2番のサビ(2:03〜)とか3番のサビ(2:57〜)からどんどん増えています。あそこはデモの段階から入っていて、ヒカルさんもとても重要なポイントだとおっしゃってました。「初恋」も、絶妙なコーラスを楽しんでいただけます。
――「初恋」は、「♪I need you」という繰り返し登場する繊細なコーラスが印象的ですが、1番から2番にかけてさらに旋律が重層的に増えていったり、サビのコーラスもそれぞれニュアンスが変わっていたりと、聴き応えがあります。
ヒカルさんは、メインボーカルだけでなく、ハモリやコーラスの歌い方のニュアンス、声色も緻密にコントロールしているんです。リードボーカルに対してタイトに歌っているハモリもあれば、何本か重ねたハモリ同士はすごく揃っていても、ハモリとリードボーカル自体は敢えて揃えていないとか。どの曲にもそういうこだわりがあり、それがさらに楽曲の立体感を作っている。ハイレゾだとそこをより、堪能していただけます。
――なかでも、この曲をぜひという小森さんのオススメは?
楽曲全体としてあえて1曲挙げるとしたら、「あなた」ですね。ボーカル、コーラスはもちろん、最初ピアノと歌だけで始まって、ドラムとベースが入ってきて(0:24〜)、そのあとストリングス(0:46〜)とブラス(1:07〜)入ってきてと、けっこう抑揚があるトラックなので、ハイレゾだとよりドラマティックに聴けると思います。ぜひ大きな音で楽しんでもらえたら。そういう環境に適したミックスやマスタリングになっているので。ちなみに、スティーブンの仕事はひとつひとつが実に細かく丁寧。本人はいたってフレンドリーで冗談好きなんですけどね(笑)。楽器の録音もミキシングに頼らず、完成型をきっちりと録りきります。ミキシングもどっしりと重心が低く、低域から高域まで全てをコントロールしているので、大きな音でも気持ちよく聴けるんです。そこもハイレゾ向きかと思います。
――ちなみに『初恋』の制作で、印象的だったレコーディング・エピソードがあればぜひ聞かせてください。
「あなた」のボーカルレコーディングが印象的です。録り終えたとき、プロデューサーの三宅彰さんや、ディレクターの沖田(英宣)さんら、そこにいた全員が「すごくいいテイクが録れた」という大きな手応えを感じていました。
「パクチーの唄」もとても印象に残っていますね。海外ミュージシャンたちがみんな、「俺、この曲好きだわ」と言いながら、すごく楽しそうに演奏してました。ボーカル・レコーディングも、例えば「Play A Love Song」のように、ボーカルがクロスしたり、メインボーカルの裏にコーラスがあったりと、細かいパーツが緻密に融合している曲は、歌も精度高くキッチリ録っていくんです。でも「パクチーの唄」は、全体を通しで歌った印象を重視するアプローチでした。
――そんな音作りにこだわった『初恋』は、宇多田ヒカルさんの楽曲作りの才能、シンガーとしての才能にもあらためて驚嘆する極上の1枚ですね。
そうなんですよ。先ほど挙げた「誓い」も、そこまで熱心な音楽ファンではない方が聴いた時に、「いいな」と思えるキャッチーさがありつつ、マニアックな音楽リスナーやミュージシャンなど同業者が聴いても、「これはすごい」と思える深みがある非常に独創的な楽曲なんです。そこが両立している上に、誰も真似できないオリジナルでもある。それが、宇多田ヒカルさんの一番すごいところなのだと思います。
小森雅仁(こもり・まさひと): 宇多田ヒカル前作『Fantôme』より全曲のボーカルレコーディングを担当するエンジニア。
小森雅仁参加作品
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宇多田ヒカル
「初恋」
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宇多田ヒカル
「Fantôme」
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米津玄師
「Lemon」
「クランベリーとパンケーキ」など
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米津玄師
「BOOTLEG」
「飛燕」「打上花火」など
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小袋成彬
「分離派の夏」
宇多田ヒカル アルバム「初恋」 Hi-Res experience ハイレゾ試聴企画
6月26日(火)より、全国のソニーストアにて、アルバム「初恋」ハイレゾ全曲試聴企画を開催!
『初恋』エンジニアのスティーヴ・フィッツモーリスをフィーチャーしたコーナー展示も。
6月26日(火)より、全国(札幌/銀座/名古屋/大阪/福岡天神)のソニーストアにて7thアルバム『初恋』のハイレゾ全12曲がハイレゾ音源試聴可能になります!
さらに今回は、『初恋』のエンジニアでもあり、ペット・ショップ・ボーイズ、フォクシーズ、スティング、サム・スミスなどのヒット作を手掛け、グラミーも受賞しているエンジニア、スティーヴ・フィッツモーリスがこれまでに手掛けた楽曲の試聴や、宇多田ヒカルについて語るインタビュー映像の一部を特別上映しています。アルバム『初恋』を、より深い視点で楽しめる内容になっています。
ソニーストアならではの高音質な試聴空間で、ぜひアルバム『初恋』をお楽しみください。
期間: 6月26日(火)~7月16日(月・祝)
実施内容に関する詳細はサイトをご覧ください。
宇多田ヒカル 7thアルバム
「初恋」
【収録曲】
01. Play A Love Song (『サントリー 南アルプススパークリング』CMソング)
02. あなた (映画『DESTINY 鎌倉ものがたり』主題歌/ソニー『ノイキャン・ワイヤレス』CMソング)
03. 初恋 (TBS系 火曜ドラマ『花のち晴れ~花男 Next Season~』イメージソング)
04. 誓い (ゲームソフト『KINGDOM HEARTS III』テーマソング)
05. Forevermore (TBS系 日曜劇場『ごめん、愛してる』主題歌)
06. Too Proud featuring Jevon
07. Good Night (アニメーション映画『ペンギン・ハイウェイ』主題歌)
08. パクチーの唄
09. 残り香
10. 大空で抱きしめて (『サントリー天然水』CMソング)
11. 夕凪
12. 嫉妬されるべき人生
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